に創作方法を基礎づけるのが適当だろうというような考の誤りも、はっきりしてくると思います。労働者だからといって、そのまますぐに彼を一人のプロレタリアートすなわち民主主義革命の担当者であるといえないことは、私よりもおそらく職場の人達自身が知っているでしょう。労働者自身がもっともよく遅れた労働者がどんなに階級の負担であるかということとそれを悪用する勢力の現実を知っています。民主主義文学は、初期の無産者文学ではありません。第一次大戦直後のプロレタリア文学でもない。世界ファシズムの発生につれ、ファシズムから被害を蒙むる社会層が、労働者・農民ばかりでなく、広く小市民・インテリゲンチャ、進歩的な自由主義者の範囲にまで及んできて、民族の自立とその文化的な伝統さえ抹殺されはじめたとき、世界をとりまく反ファシズム、日本においては特に天皇制的なファシズムへの抗争、人民の力による民主主義革命の達成という課題をもってあらわれました。だから当然のこととしてプロレタリアート以外の広い協同戦線を持ちますが、そのことはプロレタリアートが民主革命推進の指導的勢力であるということを否定しません。この事実からみても、今日民主主義文学の創作方法が段階的に勤労者的リアリズムと限られることは誤りです。その展望において人民の力による民主主義がプランにのぼっている以上、その展望に相応しい文学の方法は社会主義リアリズムであると思います。自覚ある労働者は常に遅れた労働者の自然発生的なリアリズム――現実主義、実利主義と闘っています。彼らの経済主義と闘っています。
ここで私は非常に面白い矛盾がさき程からの討論の中に含まれていたと思うのです。発言者は、殆ど全部新日本文学会の活動がもっと革命担当者である労働者階級の現実にふれ、その経済的・政治的闘争に参加するようにと要求されました。それは全く正しいと思います。それだのに、何故討論は現在のわれわれが獲得した事実として存在する民主主義文学運動の所産を、全面的に先進的階級のために生かして使う機敏で闘争的なプランについての発言がなかったのでしょう。この面は、プロレタリア文学の遺産の継承に関する討論と等しく、わたくしには非常に静的に論議されていると感じられました。例えば、組合の闘争において、権力との闘いにおいて、プロレタリアートの全線にプラスするどんな小さな成果も、わたしたちはそれを念
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