盗難
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)紅絹《もみ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)先[#「先」に「(ママ)」の注記]ぐ
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小さい妹の、激しい泣き声に目をさましたのは、彼れ此れもう六時であった。
三時頃に一度お乳を遣った丈だったので、空おっぱいをあずけたまま、先[#「先」に「(ママ)」の注記]ぐお乳を作りに配膳室へ出て行った。
寝間着のお引きずりのまま、二人が腫れぼったい目にもう強過ぎる日光で、顔をしかめながらお湯を沸かしに台所へ出ると、中央の大テーブルの真中に妙なものが、のっかって居る。
いつも、一番奥の部屋――私共の床のある所の隅に置いてある筈の桐の小箪笥が、すっかり掻き廻した様になって居るのである。
三つとも引き出しは抜きっぱなしになって、私共がふだん一寸拾ったボタンだの、ピン、小布などの屑同様のものを矢鱈につめこんであるのが、皆な引っぱり出されて、あかあるい日の中に紙屑籠を引っくり返した様になって居る。
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「まあどうしたんだろう、
誰が此那がらくたを引っくり返したんだろうね。
[#ここで字下げ終わり]
と云って、小さい紅絹《もみ》の布や貝ボタンをひねくりながら、若しかすると母が、夜中に気分でも悪くして、薬をさがしたのじゃあるまいかなどと思って見た。
けれ共、どうもそれにしても妙である。
寝室にはスタンドがあるし、それで暗すぎるなら、食堂にだって、その次の部屋にだって、いくらでも電気がつくのに、何もわざわざ此那所までえっちらおっちら持ち出さないでもすむにきまって居る。
小さいと云ってもかなり持ち重りのするものを、母が長い廊下を運んで来たと云う事は、どんなにしても考えられない事だ。
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「ほんとに変だ、一体誰がこんな馬鹿をしたのかしらん。まあとにかくそうやっとおき、今に皆にきけば分るだろうから。
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私はブツブツ云いながら乳を作って持って行こうとすると、もうさっきから裏の方を掃除して居た書生が、窓の所から大きな声で、
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「一寸お嬢様、変です、早く来て御覧なさいまし早く。
[#ここで字下げ終わり]
と叫んだ。
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「何? どうしたの。
「奥の用箪笥が、遊動円木の傍に出て、ごちゃごちゃになって居ます。
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と云う。
私はハット思った。
さてこそ、到頭入ったな?
頬かぶりで、出刃を手拭いで包んだ男が、頭の中を忍び足で通り過ぎた。
私は大いそぎで、まだカーテンが閉って居る寝室の戸を、ガタガタ叩きながら、
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「お母様! お母様! 早くお起なすって頂戴。
[#ここで字下げ終わり]
と云うと、もうさっきから起きて居たらしい母の顔が、すぐ出て来た。
私は自分でも気の付いたほど、喫驚《びっくり》し、へどもどした顔をして、用箪笥の一件を報告した。
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「そいじゃすぐ交番へお出って。それから、皆なそのまんまにして置かなくっちゃいけないよ、すぐ行くから。
[#ここで字下げ終わり]
その中に弟達が皆起き出して、面白半分に、
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「泥棒が入ったんだって? どっから入ったの? 誰か見つけた?
「何故僕起さなかったんだい。泥助の奴なんかすっとばしてやるのになあ。
「いつ入ったの? 僕の本持ってっちゃわないだろうか。
[#ここで字下げ終わり]
などと口々に騒ぎ立てるので、家中はすっかり大騒動になって仕舞った。
私は、紺がすりの元禄袖の着物に赤い小帯をチョコンとしめたまま、若し何処か戸じまりに粗漏な所があって、其処からでも入られたとあっては、ほんとに余り気が知れていやだと思って、故意《わざ》と閉めたままになって居る家中の戸じまりを見て廻った。
湯殿から水口から、どこの隅までもゆうべ鍵をかけた通りに釘がささり、棧が下りて、鼠のくぐったあとさえもない。
それに足跡もなければ、どの部屋にも紛失物がないので、何が何だか分らない様な心持になって仕舞った。私の部屋の彼那ぼろ雨戸でさえちゃんとして居て、中に一杯ちらかって居る紙屑も本も、玩具も、何一つとして位置さえ変って居ない。
「入るにしても、余程巧者な泥助だ」と思いながら彼方此方歩いて居ると、じきに三十形恰の人のよさそうな巡査が庭木戸の方から入って来た。
家中の者は、此のたった一人の「おまわりさん」が家の者を気味悪がらせた泥棒の始末を付けて呉れるのかしらんと思いながら、ズラリと立ち並んで、第一の発見者である私が、最初の模様を細かに説明した。
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「フフン、そうすると何ですな、矢張り外から入ったでしょう。何処か戸閉りを忘れた所がありませんかしら。まあ一廻りしてから、お宅の中を一寸見せていただきましょう。
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少しなえた様な服を着て、猪首の巡査は、何か云っては赤い顔をした。
疎な髯のある肉のブテブテした顔が、ポーッと赤くなり、東北音の東京弁で静かに話す様子は、巡査と云う音を聞いた丈で、子供の時分から私共の頭にこびり付いて居る、
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「何ちゅうか、あ――ん
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とそり返る概念を快く破ってくれた。
私はその巡査がすっかり気に入った。
可愛い人だと思いながら、背を丸くして行く彼のお供をして行くと、成程、まだ新らしい用箪笥が滅茶滅茶になって居る。
鍵がかかって居るのを、無理に何か道具でこじあけたと見えて、金具はガタガタになり、桐の軟かい材には無残な抉り傷がついて居る。
これには、母がまだお嬢様だった時分、書いたものや、繍ったもの、また故皇太后陛下からの頂戴ものその他一寸した私共には何でもなく見える、髪飾りなどばかり入って居たのだ。
地面にじかに投げ出されたものの中には、塩瀬の奇麗な紙入だの、歌稿などが、夜露にしめった様にペショペショになってある。
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「此那になって居るのを見るのはほんとにいやだ事。一そ一思いに皆持って行って仕舞えば好いのに。
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私は、醜い形にされた箪笥だの、泥になった好い物などが、しょぼくない形で散らかって居るのを見ると、ほんとにいや――な心持になった。
今頃は、どっかの屋根の下で、泥棒殿はニヤニヤして居るのだろうと思うと、此那にして大狼狽して居る自分達が、何だか変な心持もした。
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「さあ一体どこから入ったんでしょうなあ。
一向跡がありませんなあ。
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巡査は、毛虫だらけの雑木の中をくぐって、垣根際まで行ったり、裏門の扉によじ登ったりして見た。
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「このトタン塀はのぼれませんがね、
ちと此の門の方がくさい。
一体斯う云う風に横木を細かく打った戸は、風流ではあるが、足がかりが出来ますから、どうしても用心にはよくないですなあ。
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私共は、ガヤガヤ云いながら風呂場の前まで行くと、すぐ傍の、隣の地境に、歯抜けになった小階子が掛って居るのを見つけた。
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「あ! 階子! 階子がありますよ。
これじゃもう此処から入ったとほか云えませんね。
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皆は、杉の生垣に喰い込んで居る朽ちた様な階子を、触ったりガタガタ云わせたりした。
けれ共、それは、何処のだか知って居るものは誰も居なかった。
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「どこんでしょうね、うちのは高い所に吊り上げてあるし、もっとずーっと長いしするから……
おとなりんじゃあないでしょうか。
「そうかもしれない、
あ、ほらね此処が此那に折れてるでしょう。
向うから此方へ階子を下して、此れを足がかりにして登ったんです。
[#ここで字下げ終わり]
巡査は、垣根際の桃の木をさした。
生れてこのかた、今日まで泥棒と云うものに入られた事のなかった私は、此那ことをして一々探索してあるく事が此上なく、面白かった。
命に別状さえなく、彼那嫌な風付きにさえならないですむなら、たまには探偵も面白いだろうなどと思われた。
第一の入口は斯様にして分ったけれ共、どこから家の中に入ったかと云う事が疑問であった。
水口の所にやや暫く立ちどまって、しきりに戸を外から、押したり叩いたりして居た巡査は、急にさも満足したらしい、得意そうな声をあげて叫んだ。
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「漸《ようよ》う分りました。此処からです。此処から入ったんです。
間違いなく此処です。
そら、斯う鍵が掛って居ますねそれを斯う分けましょう。そして、錠を突あげると何でもなく明いてしまう。奴等あ何と云ったって、本職なんですからな。
[#ここで字下げ終わり]
それから彼は、靴を脱いで、台所中をすかしながら這い廻った。
流し元と、女中部屋との間の板の間に、薄く泥のあとが付いて居るけれ共、それもぼんやりして何がどうだか分らないので、
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「此処いらを余程行ったり来たりした様ですなあ。
[#ここで字下げ終わり]
と、血が集まって、真赤になった顔を苦しそうにあげた。
用箪笥のあった奥の部屋へ行って見ると、二棹並べて置いてあった大箪笥の上の、こまかいものが皆下に下ろしてある。
彼那大きなものを持ち出し、此処でも之丈の事をしたのに、どうして家の者の目が覚めなかったのか、
どこかに禁厭がしてないかとか、ゆうべ誰かが干物を外へ出して置いたまんまだったのではないか。
斯うやって考えて見ると、どうしても三時頃に私共が乳を作りに起きた時には、台所の電話室に居たのだろう。
若し、私でなくっても誰かが思いがけない出会い頭に声でも立てたらどんな事になるか。
皆は、ほんとに誰一人目をさまさず声も聞かなかった事を、此上なくよろこび合った。
三面で見る様な、惨虐な場面が、どうしたはずみで起らないものでもなかった。
まあこれぞと取られたものもなしするからほんとによかったとは思ったけれ共、一番部屋の端に寝て居た自分は、きっと蚊帳を通して、自分の寝姿を見られた事は確かだと思うと、女性特有の或る本能的な恐怖は、強く浮き上って来て、自分の眠って居たと云う事は、将して、ほんとの自分の眠りであったろうかなどと云う事さえ感じられて来た。
そして種々恐ろしい様子を想像して見れば見る丈、今斯うやってきのうと同じに、歩き喋り考えて居られる自分が、又外の家中の者が、ほんとに仕合わせであった様に思わずには居られなかったのである。
巡査は間もなく帰って行った。
けれ共、段々彼方此方片附け出すと、泥足の跡のある着物だの、紙片れだのが発見された。
その中でも、最も皆を縮み上らせたのは、湯殿の化粧台のそばに落ちて居た一枚の「ぼろ」であった。
うす黄い、疎な木綿の二尺ほどの布は、何か包んで居たらしく皺になって、所々に金物の錆が穢らしくついて居る。
何か金物を包んで来たのだと云う事は確かである。
皆の者は、そのうす汚れた布片れにくるんであった、赤錆のついた鉄棒か斧が、真暗の湯殿に立って、若し誰でも来たらと身構えて居る男の背後にかくされてある様子を思うと、ほんとに背骨の一番とっぽ先が、痛痒い様な感じを起して来る。
若し自分でも、フト用足しに起きでも仕て、彼那どこの馬の骨だか分りもしない奴の錆棒なんかで、グーンと張り倒されたなりにでもなって仕舞ったら、どんなだったろう。
さぞ私は美くしく、賢こく、好いお嬢様であった様に云われる事だったろうに。
美人と云われたけりゃ身投げしろと云われた下女の様な事を考えて居たのである。
家中は、畳の上まですっかり雑巾をかけられた。
風呂場の手拭では、どんな事をしたか知れたものでないと云うので、すっかり新らしいのに掛け換えられ、急に呼ばれた大工は、「本職の奴等」につけ込まれない様にしまりをすっかりしなおした。
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