立五周年の記念に千円出し、更に維持員をつのることで、雑誌も続刊されることに決定したのは、六時近くであった。
今そこから彼等が出て来たうなぎ屋の数本の高い竹の葉が、夜に入って少しそよいで来た風に微かな葉ずれの音を立てている。パナマをぬいで、上着のふところへその僅かな街頭の涼風をはらませるようにしながら信一が昼間のままのなりで傍に立っている道子を顧みた。
「さて、――どうしますかな」
「お義兄《にい》さんは? 時間おあきになっているんですか」
「ああ今夜はひとつゆっくり話もしたいと思っていたから――同じことなら、じゃ河岸っぷちへでも出るとするか」
尾張町の角から、築地河岸の方に向って二人はぶらぶら歩き出した。おでこから頸のまわりへ真白く汗しらずを塗られた浴衣姿の小さい男の子が手に赤い豆提灯をぶら下げたまま、婆さんにおんぶされて涼んでいる姿など、いかにも下町のこの辺らしい。
事務所から疲れ切って道子は義兄と会食の約束があった竹葉へかけつけ、折角であった御馳走も今|漸々《ようよう》胸に落付いたような工合である。飯を食べながら信一は、啓三の留守の間故郷の田舎から河田の両親を東京へよび迎えて一緒に暮すようにしてはどうかと云った。
「こう云って来てもいるしするからね」
六十八になっている信輔の手紙を見せた。それには、道子にとっては思い設けないことに、もし我々二人の老人が上京することが道子どのの生活が落付いてよろしいと申すならば、よろこんで出京致すつもり云々と書かれている。
「そちらから何とかお手紙をお出しになりましたの?」
「どうもその方がよかろうと考えてね。あんたも一人じゃなかなか楽じゃあるまいと思うし……」
両親にたいして特別やさしい感情をもっている啓三が、親たちを呼びたいと云っていたのは二三年来のことであった。
「お呼びすることは啓さんも云っていたことなんだけれど――どうかしら――何しろ私は御承知のとおり朝九時頃からおそいときは夜まで外なんですものね、お年よりのお世話をして上げたくても、とてもまわらないので却って悪いと思うんですけれど……」
信一は、
「ハハハハ」と、闊達そうに白ズボンの膝をゆすって笑った。
「何もそう嫁さん気質を出さんでもいいじゃないですか」
「そういうわけじゃないけど」
小ぢんまりした素顔に道子も苦笑を浮べた。
「やっぱり私だっていらしたからには、御満足のゆくようにしたいと思うのは自然ですもの――」
「啓さんも、あっちへの手紙にそんな意嚮《いこう》を洩しているらしいよ」
「…………」
啓三は、単純な又それが当然である簡単さで、日頃から両親のものわかりのよさを語っていた。道子が独りで暮すよりは、
「朝も手だすけして貰えるし、つかれてかえればちゃんと食事の仕度を母がして待っていてくれるようだったら、君も疲れないですむだろうし、時間も出来てきっと勉強にも好都合だと思うがどうだろう」そう、道子への手紙に書いてもよこした。啓三の人物のこだわりなさがこの文面に滲み出している。そう思うとともに、妻である道子の感情には、おのずから啓三がそこに描いているとは違った内容を直感させる嫁としての現実が映って来るのであった。現在の日本の家庭で、その家の娘であるということと嫁であるということとの間には、決して同じでないものがある。しかもそのことをはっきり実感としているのが女だけだということは、何という気まずさや不便やけちくさいような困却があることであろう。道子にしろ、啓三にその気持だけとり立てては云えまい。
信一は、ちょっと立ちどまってチェリーに火をつけたりして、暫く自分ひとりの考えにこもって歩いている風であったが、やがて思い出したように、
「どういうことにしますかね、さっきの話は――」
小柄な道子の額のあたりへ視線を向けた。
「さあ、何しろ五年の間まるっきり別々な生活でやって来ているのですものね」
「だからなお今がいい機会とも云える」
「啓さんがおれば私何も心配はないと思うんです、お年よりがいらしったって。二人で今までより働いて、女中さんおけばいいんだから。今は、私一人でかつかつなんですもの」
「あっちは経済的にあんたの心配を受ける必要はいらんだろう」
道子は、不図思いついて少し皮肉に、
「じゃいっそお義兄さんのとこへおよびになったら?」
と云った。
「御長男でいらっしゃるし生活は立派に確立していらっしゃるし、一番よろしいわ」
「そりゃ駄目だ」
狼狽を語調に出して信一は早口に拒んだ。
「そりゃまずい。どだい、うちの奴とおっかさんとがうまく行くもんじゃない。両方を知っているからはっきり僕にゃわかっている――絶対駄目だよ」
「私とはうまく行くってわかっていらっしゃるんでしょうか」
ふーむと煙草の烟を目で追うようにしながら、
「君と親父とはどうかしらんが、母親とはまあうまく行くだろう。女同士が円滑なら家の内は丸く納ってゆくもんさ」
今両親を呼びよせろと云い出している信一の、総領としての世間体や気の弱い良人としての気働きが、案外のところに動機をもっていたのが問わず語りにわかったようで、道子は思わず、
「あなたのお考えと啓さんの考えとは、すっかり同じというわけでもないんですね」
勝気な気性を出して云った。
「御両親のためにお迎えするのなら私としてはお義兄さんに願うしかないし、もし私のためなら、私は一年や二年こうやって働いて、出来たら勉強もしている方が自由です」
「――啓さんは、じゃどう思っているのかね」
「啓さんには私の気持がわかっています。きょうも会って、話して来たんですもの」
「あんたの気持は、しかし、目下の場合贅沢じゃないか」
良人が不自由な生活におかれている間、勤めて自分の生活と良人の生活とを守り、勉強もしてゆきたいと希うはりつめた女の気持の、どこに贅沢があるのであろう。
「贅沢って――よくわからないけれど」
道子はそう云ったまま、河岸のコンクリートの杭にもたれた。同じ河岸の二三間さきのところに一台オープンにした自家用らしい自動車がテイルまで消して止っていて、柔かい桃色の装をした若い女が車の踏段のところに腰かけて涼んでいるのが見えた。わきにすこし離れて、白いシャツを夜目に浮立たせ、パイプを啣《くわ》えた男が立っていて、二人は別に喋るでもなく穏やかな親しさで河風にふかれている。道子につられて、信一も先の棒杭のところに片腰かけるような恰好で休んだ。そして、火のついたままの煙草の吸殼を河の面へ向って放ったりしている。
夜の水の深い匂いや、聴えるか聴えないに石垣を洗っている潮ざいは、だんだんに道子の神経をなごました。型にはまった男の気持から、弟の妻までを所謂《いわゆる》留守を待つ妻として垂れこめて暮させたがっている信一。しかもその気分に托し絡め合わせて本来なら自分の家庭へ引きとらなければならない筈の老父母の世話までを、体よくこの際弟嫁にまかせられたならばと思いついたりしている兄夫婦のこせついた生きかたを考えると、そういう打算を知らない心で、家族の者に善意だけを向けて考えるしかない境遇におかれている良人の啓三が、道子に一層いとしく思われるのであった。遠い川上の方から両舷とマストのイルミネーションを夜空に美しく燦めかせながら、一艘の遊覧船がゆるやかに東京湾に向って下って来た。道子たちが休んでいる河岸を通り過ぎる時には、白く塗られた甲板に並んでこっちを物珍しそうに眺めている浴衣姿や開襟シャツの船客たちの目鼻立ちまで手にとるように見える程、イルミネーションは明るかった。船は音楽をものせて進んで行くのである。道子は、わきに佇んでいる義兄に対して融け合えない気持が益々動かしがたく感じられるにつけ、啓三への愛着の高まる気持で、凝っと遠ざかる船の音楽に耳を傾けていた。
底本:「宮本百合子全集 第五巻」新日本出版社
1979(昭和54)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第五巻」河出書房
1951(昭和26)年5月発行
初出:「新女苑」
1937(昭和12)年9月号
入力:柴田卓治
校正:原田頌子
2002年5月4日作成
2003年7月5日修正
青空文庫作成ファイル:
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