築地河岸
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)鬱金《うこん》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)今|漸々《ようよう》胸に落付いた
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12、225]《むし》り
−−
門鑑を立っている白服にかえして前の往来へ出ると、ひどいぬかるみへ乱暴に煉瓦の破片をぶちこんで埋めたまま乾きあがっている埃っぽい地面とギラギラした白雲との間から、蒸れかえった暑気が道子の小柄な体をおし包んだ。
永年その一画には高い高い煉瓦塀が連って空の一方をふさいでいた、そこが、昨今急に模様変えになって、高さに於ては元よりも高いコンクリート塀が旧敷地の奥の方へ引込んで新しく建てめぐらされたので、周囲の風景には印象深い都会の貧と荒廃とが露出しているのであった。
刑務所の塀に沿うた町筋などに軒を並べて来た連中の暮しのほどは、およそ推察されるのであるから、急に大きな塀がとりこわされて無くなってしまった後には、※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12、225]《むし》りのこされたように歪んだ長屋や小工場などが生活の内部を炎暑にさらして現れている。雑草が茂って、大きい水たまりがところどころにあり、広いごみ捨場のような眺望の空地は、新製式な工場めいたコンクリート塀の下からはじまって、遠く電車通りのところまで一本の樹木の蔭もなく延びひろがっている。
道子が同じ路を二時間ばかり前に来た時には、その荒れた広っぱのひとところで数十人の白服が列をつくって並んだり、分列したり、動いていた。
道子は小さくきちんとたたんだハンカチで、ベレーをかぶった額や小鼻の汗をふきながら、むらのない歩調で歩いた。こまかく光る金網のむこうで道子を見て、どうしたい、と笑った啓三の顔や、あつそうに片手で単衣の袖を肩の上へたくしあげた啓三の身ごなしが道子の眼へというよりはうち向っている心にまざまざとのこされた。良人に面会した後は単純にうれしかったなどと云い切れない苦しい感情が、いつも道子の気分にのこされるのであった。益々底深い鬱然とした気分、その一方では、まあよかったとぼんやり自分から自分を云いなだめている気持、それが錯綜するのである。きょうは、何かそういう気持のからみ合いがきつく感じられた。
大通りの古着屋の前に停留場がある。道子はそこから麹町の勤めさきへゆくに便利な省線の駅までバスにのった。駅前で降りると、折からストップになった四辻のプラタナスの街路樹の下にセイラア服の女学生が四五人かたまって、
「困っちゃったわねえ」
「あのひと覚えてやしないわよ、だから嘘ついたと思われちゃうわ――やだなあ」
などと云いながら、ピケの白い帽子をおかっぱの頭からぬいで、当惑そうにむこうを眺めている。視線の先は駅の入口で、そこには乳呑子を背負った二人の中年のおかみさんが、必死の面持で通行人をつかまえては、鬱金《うこん》木綿に赤糸で千人針をたのんでいるのであった。
「一人だっておんなじ人が縫ったら駄目になっちゃうっていうんですもの――」
その女学生たちは、ゆきに同じ処でそのおかみさんの千人針を縫ってやったものらしい。帰りに同じひとがまだいる。又たのまれたら二度一人が縫うことになるし、断れば信じまいと、真面目にこまっているのであった。七月このかた、市中の人出の多いところは到るところで千人針がされていた。両国の川開きのなぐれで、銀座が押すように雑踏していた晩、道子が社用でその間を擦りぬけながら通っていると、新橋の方からバンザーイ、バンザーイという叫びがだんだん近づいて来た。見ていると一台のバスが、日の丸小旗を手に手に振りかざして窓から半身のり出しバンザーイと叫んでいる女車掌を満載して、疾走して来た。ああ、職場から誰か出征するのだ。背筋を走る感動とともに道子がそう思った瞬間、紅をぬった口々をあけて声を限りバンザーイと舗道の群集の流れに向って叫んで行く婦人車掌の間に挾まれて、軍服を着た若者が、手の小旗を振ろうともせず、騒ぎに包まれてぼんやり無意味な善良な微笑をたたえて立っている姿が目を掠めた。その男の呆然としている顔の上を、夏の夜の色々なネオンの光りが矢継早に走った。間をおいて、もう一台バスが同じような叫びを盛って上野の方へ走った。バンザーイと亢奮した声の嵐と小旗のひらめきの只中で、ぼんやりした微笑をこりかたまらしていた若者の顔を、道子は容易に忘れることが出来ないでいるのであった。
赤坊を背負ったおかみさんは、気のたかぶっている眼の端に道子の来かかる姿をとらえると、自分の手を持ちそえて一人の若い女に縫って貰っている最中だのに、
「あ、ちょっとすみませんが願います」
と気ぜわしく呼びとめ、前のひとが赤糸の丸をしごく間ももどかしそうに、
「おねがいします」
と二足ばかり小走りによった。
道子は、ハンドバッグを腋の下へ押えこんだ不自由な手頸の動かしかたで縫いながら、
「御主人ですか?」
と訊いた。
「ええ、そうなんですよ、あなた。子供が三人いるんですよ」
真岡の袂でのぼせあがっている顔をふきながら、おかみさんは、
「すみません」と礼を云った。
省線の窓からも、号外売りが腰の鈴をふりながら、街をかけて行くのなどが見下せる。道子のとなりに腰をかけている若い二人づれが、自分たちの興奮を気軽さにすり代えた高調子で頻りに喋った。
「小田さんところへ禁足命令が来たってじゃないか。そろそろ僕らの順だぜ」
「出るとなりゃ、ピストルを買わなけりゃならないね、一体どの位するもんだい」
今はもうそう汗が出ているというのでもなかったが、そんな会話をききながら、道子はいよいよ小さく堅くかためたハンカチで頻りに顎のあたりを拭いた。
道子の働いている医療機械雑誌関係の用で、或る外科の大家を訪問したとき、時節柄千人針の話が出た。千人針を体につけていて弾丸に当ると、弾丸はぬくことが出来ても、こまかい糸の結びの目と布とが傷の内部にくいこんで危険だということであった。人間の腕力だけでふるわれた昔の素朴な武器にふさわしいそういうお守りを、今日もやっぱり縫って、せめては身につけて行かせようとする家族の心持というものが、道子に惻々と迫って来て、それがただ心持の上だけのものとなっているだけ一層切ない街上の風景なのであった。
新橋駅の北口から、道子は急いで地階はモータア販売店になっている事務所の階段を三階へのぼって行った。広告をとりに歩く時間を利用して、道子は良人の面会もしているのである。葭簀《よしず》のドアをあけて入ると、二つ向いあった一方のデスクの前で、今年女学校を出てタイプの講習を終ったばかりの千鶴子が、いくらかたどたどしく維持員名簿をうっている。道子は、
「おそくなりました」そう云いながらベレーをぬいで壁の釘にかけ、すこし気づかわしげに、
「もうあと何枚ですみます?」ときいた。
「もうこれでおしまいですの」
「それはよかったわね。――どなたか来ましたか?」
「いいえ」
水色のワンピースを着た千鶴子はいいえと云って首をふりかけて、
「あ、すみません、一人いらっしゃいました」
おかしそうにすこし雀斑《そばかす》のある瞼の中で眼玉をくるくるさせた。
「とても髭の特徴のある方が見えましたわ。よくいらっしゃる方――」
その日は午後一時から関係者の定期集会がある日なのであった。
「髭の特徴がある人って――誰かしら」
千鶴子は団扇《うちわ》をとって、向い側から道子の方へ風を送ってやりながら、
「一番ちょいちょい見える方――会計の方じゃありません?」
「豊岡さん? あのひとならそんな髭なんかないわ」
「あらア、だってあったんですもの」
「だってあの人の顔なら私もう二年も見てるのよ」
「そうかしら――たしかにあの方だと思うんですけど。あの髭……」
いかにもそれは特別な髭という調子なので、道子も、云っている千鶴子もとうとうふき出した。
「まあいいわ、又来るって云ったんでしょう」
「ええ」
「じゃあ今度こそよく見とこう」
千鶴子はくすくす笑っている。
その狭い事務室には内外の専門雑誌とカタログとが、各部門別のインデックスで整理、陳列されていた。会議室は、もう一階上の四階を賃借りしてつかうのだけれど、準備の間はもとより集会の間にも道子は幾度かそこを上から下へと往復しなければならないのであった。大テーブルのぐるりに三十人近い頭数だけ、雑誌の最新号と議題を刷ったものと維持員名簿をもふくめた参考資料をキチンと並べ終って道子が、
「大体よさそうね」
その辺を見廻している時、ドアを開ける拍子にノックする内輪のものらしさで、
「やあ」
入って来たのは、ぬいだ上着を手にもち、カンカン帽をもう一方の手にもっている太った豊岡であった。
「ひどい暑気ですなあ、フー、そとはやり切れたもんじゃない」カンカン帽で風を入れながら、
「ここも扇風機がたった一つじゃ無理だね、お偉がただけふかれて、こっちまでは当らん」
さっさと上座の方へ行って白塗の扇風機のスウィッチを入れた。それと一緒にテーブルの上へ並べた書類が飛びそうになった。千鶴子が、
「あら!」
それを押えながら、やっと今まで呑みこんで辛棒していた笑いを爆発させる公然の機会とでもいう風に肩をよじって笑い出した。
「や、これはすみません。これならよかろう」
ファンの向きをかえている豊岡に、道子が、
「さきほどお見えになったんですか」ときいた。
「ああ。あなたが見えていなかったんで、ちょっと私用を足して来たんです」
千鶴子は遂におかしさを辛棒出来なくなったらしく、水色の背中を丸めて室の外へ足早に出てしまった。道子は笑いもせず、全く我が目をうたがうように眼を見ひらいて豊岡の顔を見直した。この平凡な、下瞼にふくろの出来た五十ばかりの小勤人の鼻の下には、こうして今見れば紛うかたなき髭があった。しかも、全く千鶴子の云ったように一度見たら忘れられない下向きの、温良極りない大きな膃肭臍《おっとせい》髭がついている。――
道子にはこの二年間の自分の日暮しの感情に駭《おどろ》く思いが何より深かった。啓三が不自由な生活におかれるようになってから道子はここに働くようになり、二ヵ月前千鶴子が入る迄は一人で万事を負って働いた。豊岡なんかは男とも思わないというそんな思いあがった心持からではなく、てんから男だとか女だとか念頭に浮ぶだけのゆとりがなかった。自分で気のついていなかったほど一念こったこころでもって、毎日は朝から夜へと流れ動いていたのであった。
一時半頃から道子はテーブルの一番末席にいて、会議の要点をノートにとった。それから、自分の直接責任である維持会員からの入金工合と、雑誌刊行の状況について、詳しく説明した。この四月以来紙代や印刷代が騰《あが》って写真の多い雑誌の経営は逼迫して来ているのであった。
協会の事業を縮小するか、逆に積極政策でのり出すかということが決定されるきょうは重大な会で、会計報告がされたとき、
「こんな小っぽけな団体で、人件費が案外かかっているんですな」
と云ったものがあった。ノートをとっていて道子は顔を動かさなかったけれども、覚えず呼吸が速くなった。雑誌の編輯全部をやって広告とりまでして、道子の月給は五十円である。それは貰いすぎているといえる金額であるだろうか。千鶴子は二十五円である。千鶴子を入れるとき、常任幹事は半分本気で、
「文化学院あたりの卒業生かなんかなら、手弁当でもいいっていうのが相当いるんだろう。一つそういうのをめっける位の手腕があって然るべきだね」
と云った。道子はそういう娘たちにタイプを打つのは少いからとがんばって、千鶴子を入れることを承知させたのであった。工場でも役所でも、きりつめるというと人件費に目をつける、そのことではここも同じなのであった。会長が創
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング