一人の若い女に縫って貰っている最中だのに、
「あ、ちょっとすみませんが願います」
と気ぜわしく呼びとめ、前のひとが赤糸の丸をしごく間ももどかしそうに、
「おねがいします」
と二足ばかり小走りによった。
 道子は、ハンドバッグを腋の下へ押えこんだ不自由な手頸の動かしかたで縫いながら、
「御主人ですか?」
と訊いた。
「ええ、そうなんですよ、あなた。子供が三人いるんですよ」
 真岡の袂でのぼせあがっている顔をふきながら、おかみさんは、
「すみません」と礼を云った。
 省線の窓からも、号外売りが腰の鈴をふりながら、街をかけて行くのなどが見下せる。道子のとなりに腰をかけている若い二人づれが、自分たちの興奮を気軽さにすり代えた高調子で頻りに喋った。
「小田さんところへ禁足命令が来たってじゃないか。そろそろ僕らの順だぜ」
「出るとなりゃ、ピストルを買わなけりゃならないね、一体どの位するもんだい」
 今はもうそう汗が出ているというのでもなかったが、そんな会話をききながら、道子はいよいよ小さく堅くかためたハンカチで頻りに顎のあたりを拭いた。
 道子の働いている医療機械雑誌関係の用で、或る外科の大家を訪
前へ 次へ
全18ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング