地球はまわる
宮本百合子
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(例)[#地付き]〔一九五〇年八月〕
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封建社会のモラルは、日本でもヨーロッパでも、簡単な善と悪とのふたすじにわけられていた。そこでは、君主、家長の絶対権力をより維持しやすくする考え方や行動が善であり、その反対に、支配者の絶対権に何かの不安や疑問をさしはさむことは、最もはなはだしい悪とされていた。鴎外その他の作家の歴史小説には、この消息がまざまざと描かれている。封建時代に、君主にその非行を直言しようと決心した臣下は、いつも切腹を覚悟しなければならなかった。「直諫の士」が戦場の勇士よりも、ある場合にはより勇気ある武士とされた理由である。
日本の人民は、東條時代を通じて、もっとも非合理野蛮な侵略主義者の善と悪との規準で支配されてきた。「聖戦」に対して、いくらかでも疑問をもち、侵略行為の人類的悪についてほのめかしでもしようものなら、憲兵と警察と密告者の餌じきにされた。その上、野蛮な権勢を守るための言論封鎖の特徴として、そういう人権蹂躙が行われているという事実にふれて語ることさえ、犯罪行為として罰した。ナチスのドイツが同じこと、あるいは、もっとひどいことをした。第二次大戦の結果は、言論を封鎖し、出版統制を狂的に行ったすべてのファシズム国家の権力は、窮極には倒れざるをえないことを証明した。なぜなら、どんな力でそれについて語り、書く自由を禁じたとしても、「事実」の力が現実に歴史の推移に作用しずにはいないからである。人間は社会的生物である。この基本的な事実から発言の抑圧は直接人間の生存の自由に加えられる抑圧となる。人間というものは感じること、判断したことについて黙っていられないものとして生れている。だからこそ、人類社会は発展して来た。“地球はまわる”この真実は今日子供たちでも知っている。だが十七世紀の法王庁はこの真理を語ったかどでガリレオ・ガリレーを重罪に問うた。ガリレーは以後そのことについては語らないと裁判で答えたが、彼はひそやかにつぶやいた、「しかしそれは動く」と。そしてそれはそのとおりなのだ。徒らに言論を抑圧するということが自然と社会のすべての事実に対して、どれほど目さきのききめしかなく、しかも大局からみて聰明な処置でないかということについ
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