、そこに私たちはこの世の中における並々ならぬものを見るのである。キュリー夫人の科学上の学識、技能を更に広いところから包んで、そのものの完成をも可能ならしめたもの、それはもとより当時の社会の条件と、彼女自身の堅忍であり、不撓な意志でもあるが、もう一歩つきつめてその堅忍や強靭な意志が何処から生れて来ていたかと考えてみれば、底には一身の安穏を忘れて科学の真実を愛し守る良人と妻とが互に労《いたわ》り評価し愛しつつ、傍ら子供らへの心くばりをもおこたらぬ人間らしい個性が波々と湛えられていたことが感じられる。彼女の人間、女としての傷《いたみ》はそこで医《いや》され、科学者としての燃焼はそこから絶えざる焔をとったのであった。

 知性は、コンパクトではないから、決して固定した型のものにきまったいくつかの要素がねり合わされていて、誰でもがハンド・バッグに入れていられるという種類のものではない。そのゆたかさにも、規模にも、要素の配合にも実に無限の変化があって、こまかく見ればその発動の運動法則というようなものにも一人一人みな独特な調子をもっているものだろう。とりどりな人間の味、ニュアンスと云われるものの源泉は、恐らくはこういう知性の微妙な動き、波動の重なるかげにあるように思える。
 誰しもこの世の中に生れたとき、既にある境遇というものは持っている。それにつながった運命の大づかみな色合いというものも、周囲としては略《ほぼ》想像することが出来る。西洋に、あれは銀の匙を口に入れて生れて来た人というような表現のあるのもそこのところに触れているのだろうが、人間が男にしろ女にしろ、生えたところから自分では終生動き得ない植物ではなくて、自主の力をもった一箇の人間であるという事実は、その境遇とか運命とかいうものに対しても、事情の許す最大の可能までは自分から働きかけることも出来ることを示している。「人間は考える葦である」というような云いかたは詩的な表現として好む人もあるだろうが、現実の人間はもっとつよく高貴な能動の力をひそめているものである。根はしばられつつ、あの風、この風を身にうけて、あなたこなたに打ちそよぎ、微《かすか》に鳴り、やがて枯れゆく一本の葦では決してない。人間は自分から動く。動くからこそ互に愛し合いもすれば、傷け合いさえもする。そのように人間の動きは激しいのであるが、その激しい人間の間の動き
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング