》市附近の知識階級に限られていると云ってよろしいのですから、フランスは勿論、他の国々のことに関しては、謹んで言葉を控えます。けれども、アメリカの風俗も彼等の為に弁護する為ではなく、我々が常識として或る社会の生活を余り偏した一面のみで知っていることは、如何にも反省すべきことと感ぜられます。米国なら米国の社会が現存し、我々と直接間接に交渉を持っていると云う事実は、決してリディキュラスな話で終ることではありません。「人によって見方も違う」と云われた一例として、私は自分の周囲に見聞きした事柄から綜合した観察を述べ、又、違った角度から見た事実を述べて見たいと思います。
我々が、種々な社会状態、生活現象を観察する場合、先ず予備知識として頭に入れて置かなければならないのはその社会が、どんな個人によって形成されているかと云うことだと思います。
総体として如何なる気質の人間の集合であるか、箇々の箇人は、その根柢に於て如何なる国民性の上に生存しているか。
現象は、内に、原因を持たずに現れるものではありません。或る人が何か善行をする。或る男が破廉恥な罪悪を犯す。その善行なり、悪行なりの素因を万人は彼等の心事に見出そうとするように、私共が、或る国民の生活を観察する場合、漠然となりとも正鵠を得た、民族的気質を知らなければいけないと思うのです。
それなら、米国人は、どんな気質、性格を持っているでしょうか。
先ず、彼等が箇人主義的な生活をしていると云うことは誰でも申すことです。又、独立的気風に富んでいること、公衆道徳の進歩した国民、終りに驚くべき物質的であると云うのに、恐らく皆の意見は一致しますでしょう。
如何にも米国人は箇人主義的な国民だと思います。独立的で、同時に今度欧州の大戦に参加してから彼等自身をも驚かした程の一致力を有し、各自が利害に明かで、着々と得るべきものは精神、物質両面ながら獲得して行きます。
けれども、ここに考えなければならないことは、米国人は、箇人主義と云う一つの主義の上に、意識して彼等の生活を築きあげたのでもなく、又、独立的であるべきと云う道徳的訓練の後に、今日の気風を産み出したのでもない、と云うことです。
箇人主義と云う思想上の一名詞が考え出されない以前から、既にアメリカ人の生活は、箇人箇性を基本に置いたものであった。アメリカが植民地時代から、独立的気風は
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