雇っている処では、なかなか母に余裕はありません。そこを巧に繰廻し、乳母車に載せて、公園の静かな小路に散歩させる時を、同時に自分の遊歩時間にあてる。又は、三時間目なら、三時間目の哺乳と哺乳との間を抜けて、自分でなければ分らない用事を果す為に外出する。一体、あちらでは、立ち上る位までになった子でない、ほんの嬰児は、多くの場合、彼等の小さい揺籃《クレードル》の中に臥されています。母親は傍に椅子を引寄せて、あやしながらでも、体は自由に仕事が出来ます。いつも母の膝に抱かれているような習慣はありません。そんな風では、子供の健康に悪いのは勿論母が家事どころか身の廻りさえきちんとする事が出来ませんでしょう。
嬰児で、いつも凝《じ》っと床にいるような時代は、それでも、まだ母親の時間はあるようです。歩き出す、そろそろ外に独りででも出かけたがる。そう云う時代になると、愛情の深い母は、殆ど昼間一杯を、子供中心に過さなければならなくなるらしゅうございます。それでも、紐育のような大都市では、大抵処々にある公園の子供遊場を中心にして、児童に戸外遊戯をさせるので、母親は、転がろうが辷ろうが安全な砂場、芝原に子供を自由に放して、自分は自分の為すべきことに没頭出来る設備になっています。
丁度、朝十一時頃から午後三時頃まで、日当りの心持よい公園の広場を通ると、私共はよく、ときの声を挙げて悦び遊んでいる子供等の一群と、傍のベンチで、本を読み、編物、小さい縫物、又は不便そうに身を屈めて手紙まで書きながら付添っている保姆、母親を見受けます。
戸外からは、まだ暖いうちに連れ戻って、体を洗ってやり、大人より早い晩食をとらせ臥床に入らせる。少くとも、夜間だけは、母親の時間、両親だけが、彼等一日の仕事をまとめ、或は悠くりと楽しみ休む時間になるのです。五つ六つになり幼稚園に通う頃になると、子供は次第に、独りで物事を処理することを訓練されます。友達同士の子供の社会で、一人だちで行為することを許されます。若し通路に危険がなく、公園にでも近ければ、子供は独りで一定の時間まで遊ばせられる。朝顔を洗うこと、挨拶すること、自分の着物を出来る丈自分で始末して、玩具や靴、帽子等に対して責任感を持たせられる。小さいながら、年相当一人の紳士とし、又は淑女として、両親の教育は次第に理智的、実際傾向を加味して来るのです。
可愛ゆいと云
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