誰のために
――インテリゲンツィアと民主主義の課題――
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)似非《えせ》
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 今日、日本の民主化の課題に対して、日本のインテリゲンツィアが感じている最も大きい困難は、どういう性質のものだろうか。
 ひとくちに云いあらわせば、それは、日本のインテリゲンツィアの非常に大部分のひとが、自分たちめいめいの一生にとって、日本の民主化がどんなに血肉的な影響をもつものであるかという事実をまだ実感としていない点であり、同時に、民主主義社会の建設のために、インテリゲンツィアは、歴史の上からもどの位重大な任務を負うているかということを、十分自覚していない点にあると思う。
 日本のインテリゲンツィアの性格は、よかれあしかれ、今日において独特であり、他の国のインテリゲンツィアとちがう複雑性をもっている。それは、日本の明治からの精神史をかえりみればよくわかる。日本のインテリゲンツィアの苦悩は、いつでも、その時代と人とのうちにある進歩的な要素と封建的な要素との相剋であった。どんな文学者でも、その作家が真率な生活感情と時代感覚をもっていれば、その相剋は作品にも歴然とあらわれたし、その生死にもかかわって来ていた。透谷、二葉亭、独歩、漱石、鴎外、芥川龍之介、有島武郎、小林多喜二などの例が、それぞれの形で、この事実を語っている。
 今日、日本のインテリゲンツィアのもっている苦悩は、日本の歴史のそのような系統をひいているものではあるが、内容は変化して来ている。そして、それぞれの人に自覚されている苦悩の心理においても変化している。日本がこの十数年間、戦争強行の目的のために、インテリゲンツィアが知識人として存在するあらゆる存在機能を奪っていたことが、その変化の原因となっているのである。自主的な判断というものと、自主的に社会生活を営む自由とを人民一般が奪われていたとき、どうして知識人が、知識人たり得たであろう。すべての知識、すべての合理的探究、価値評価としての批判は封鎖されていた。在るものは、権力の強制と、その強制を可能ならせている日本の軍国的な封建的な社会の雰囲気と、知識人たる自覚を放棄した一民衆としての忍苦しかなかった。似非《えせ》学者、似非作家、似非インテリゲンツィアの恥知らずな戦争協力にたいして、声に出せない眼をきつく働かして、それに反撥し、それを非難していた人々も、知識人の中には数が少くないのであった。
 ところで、一九四五年八月以後、民主主義化が日本の課題として提示されるようになった。半ば封建の闇からぬけ出ていて、しかも、封建的重圧のために脚をとられていることを最も痛切に自覚している筈のインテリゲンツィアの層こそ、雀躍して、自分の踝《くるぶし》の鎖をたち切るために活動するだろうと期待された。しかし、現実は、単純にそう動いて来ていない。民主主義というものに対して、漠然たる懐疑めいたものが瀰漫している。民主主義という声に抵抗する心理も一部の知識人の雰囲気としてある。しかも、それは、どこまでも心理として、雰囲気としてもたれていて、その社会的コンプレックスに科学的な分析を加えられることさえも民主主義そのものへの懐疑とひっくるめて、肯《うけが》おうとしないがんこな、いこじな心理があるように思える。これは、どういうわけなのだろう。君らに、この社会がどう出来るのだ。俺は俺なりに生きてゆくんだ。放っておいてくれ。そういう気持がインテリゲンツィアらしい観念哲学や芸術論に托して表現されてもいる。
 戦争中の知性の殺戮は兇猛であった。兵隊、徴用にゆくか、監獄にゆくか、二つに一つしかないような有様であった。各自の精神がどんなにそれを軽蔑していようとも強権と肉体への暴力で、特定の権力と目的とにしたがえさせられた。本郷の帝国大学のある本富士警察の留置場、学校の多い西神田署の留置場などは、東京の警察の乱暴な留置場の中でも、最も看守の粗暴なところであった。帝大の学生そのほか諸学校学生で、社会科学の研究をしているくらいの青年たちと、条理において論判したら、看守は決して理に立って自分を権威づけられない。彼等はこの事実を見ぬいていた。それだから、これらの留置場では、理屈を云わせないために、一寸した口ごたえをしようとしても、看守はその留置人をコンクリートの廊下へひきずり出して、古タイヤや皮帯で、血の出るまで、その人たちが意気沮喪するまで乱打して、ヤキを入れた。殴る者のいないときは、そういうもので留置場の扉をうって歩いて、そこに刑具のあることを示威した。軍隊のビンタは、個人の自尊心、個性の自覚、個人の権利の観念を、その頭からはたき出すために行われた。日本のインテリゲンツィアは、こういう留置場の皮帯も、軍隊のビンタも、すべて
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