弟子の心
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)為人《ひととなり》
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私が若し自叙伝のようなものをいつか書くとすれば、種々な意味で忘られない十七八歳の時代に連関して、書き落すことの出来ない人が幾人かある。その中の一人、主なる一人として、今度、印象を書いて呉れと此雑誌社から頼まれた、千葉安良先生がある。
先生の事について何か書くのは、実に私にとって感の深いことだ。いろいろ心に浮ぶことや、一人の弟子として感じた先生の性格等と云うものを、遠慮なく書くことによって、一層先生と云うものに近づき、密接になるように感じる。若し私が筆を控えることがあれば、其れは、未完成な自分が、先生の全部を知るに足りないものであると云う自覚によるばかりだ。私は先生に自分を些も隠そうとしないと同様に、自分は先生から遠慮なく何でも感じられる丈のものを感じ、吸収される丈のものを吸収した。先生は、生れつき非常に節度のある方だ。自分は感情的ではあるけれども、その人と面と向った時、親愛の言葉などを、スラスラと述べられない性質がある。従って、先生と自分との間には、嘗て一度も、互を結ぶ師弟の愛について、熱情的な言葉は交されなかった。沈黙のうちに、私は全く先生への尊敬と帰服とを感じ、先生が、自分にかけていて下さる篤い心を、日光に浴すように真心から感じていたのである。
あの時分――女学校の四五年の頃を追想すると、斯うやって夏の田舎の屋根裏の小部屋で机に向っていても、種々な情景が如実に浮み上り、微笑を禁じ得ない心持になる。
私が一番初め千葉先生を教壇に見たのは、四年の西洋歴史の時からであった。
一体、女子高等師範と云う学校は、現在どう改善したか知らないがあの当時は、実に妙な、非人間的な雰囲気を持ったものであった。本校の生徒と云うと、皆、四方八方から体を押さえつけられ、はっと息をつめ、真正面を向いたきり、声も思う存分には出せないと云う風に見えた。ぎごちなく、醜く、その上、頭も活溌でないと云う酷評が、そう酷評でもない程に、少女時代の私の胸にはうとましく感じられていた。
ところが西洋歴史の時から、私の前に現れた千葉先生は、何処となく、その枯渇した状態とは異ったものを持って居られた。
大層すらりと均整の整った体躯、睫の長い、力ある大きな二つの眼、ゆっくりとつくろわず結ねられている髪や衣服のつけ方などが、先ず外形的に、一種の快さを与えた。
最初の一瞥で、何とも云えず感じの深い而も充分威に満ちた先生の為人《ひととなり》を感じた私は、歴史の試験で、年代などを忘れ変な答案を出すと、不思議に心苦しい思いをした。
先生が、試験の点どころか、恐らく学校の成績にさえ、拘泥して居られないことは解っていた。けれども人を観ることの鋭い先生に、出来ない生徒と極めつけられることは、恥しく堪え難いことなのであった。
五年生になってから、私共は教育心理学を教わることになった。そして、先生の人格的の影響は、愈々《いよいよ》大きく成った。
一週二時間の教育の時間を、私は如何那に待ち、楽しんだろう。私にとって学問らしい学問は、千葉先生の時間ほかなかった。僅か一時間の課業ではあったが、講義の一回毎に、頭が蓄る知識で重くなるようにさえ感じた。窮屈な文部省の綱目に支配された女学校の課程の中で、教育だけは先生の自由にまかされていたと見え、飢え饑《かつ》えていた若い知識慾が、始めて満される泉を見出したのであった。
生徒として、私は不規則な我まま者であったが、千葉先生の時間は、一度でもおろそかにしたことはなかった。この時間中だけ、平常妙に表面的に、形式的に扱われている人間と云うものが、真個に生き、意慾し、活動する生存とし、左右から見られ、切り下げられ、探究されるよろこばしさは、例えるに物がなかった。
心理学と云う学問そのものが珍しかったことは争えない。然し、千葉先生は、学問の講義のうちに、実に多くの暗示を含ませて人生と云うものを考えずにいられない刺戟を与えられたのである。
その時分から、私はまるで背低くであったので、級では一番前列に席がある。
右手の扉から、先生が軽い大股で、ノートを左手《ゆんで》に入って来、教壇に立たれる。私は、心をこめ、求道者が師を礼拝するような心持で頭を下げた。そして、次第に熱中し、興にのって、講義して行かれる心理学概論を筆記する。
先生の教授ぶりは、熱があり、インテレクチュアルで、真摯なものであった。
黒板に何か書いたチョークを、両手の指先に持ち、眉間に一つ大きな黒子のある、表情の重味ある顔を、心持右か左に傾けながら、何方《どっち》かと云うと
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