、外部からの強制ではなくて、より責任を自覚した男女間の人間性の評価の問題と考えられはじめたのである。
 けれども、この考えかたが、現実の社会生活の矛盾や相剋のなかで、どんな破局を経験して来ているかということは、十九世紀以来今日までの文学古典の傑作が扱っているテーマを思い浮べるだけで十分である。ストリンドベリーは、何故あのように女性に対して懐疑的であり、その子の真の父親を知っているのは母親ばかりであるといったのであろう。何故ニーチェは、女性には鞭を忘れるな、と彼らしいいいかたをしたのだろうか。このことは、一見全く反対の作品、例えばモーパッサンの「女の一生」やトルストイの「復活」と切りはなして観察することは出来ない。資本主義の社会そのものが、社会に貧富の差を生み出し、働く人々の階級と働かせて無為に富む階級とをつくり出した。しかもその社会の本質は、自力でその矛盾を解決する力を失っているから恋愛、結婚における貞潔の社会的根拠というものも保証しかねているのである。男と女とのまじりけない人間評価により立つ愛に対して、分担された責任である互の貞操は、先ず恋愛において、あらゆる社会的矛盾によってゆすぶられている。結婚も、互に選択するという欧州の表面の自由は、そのかげに、経済的利害の打算をふくんでいる。月給を考えずには恋愛も結婚も出来ない。こういう近代の社会生活の間で、第一次欧州大戦後は婦人の大部分がまた、自分の月給ぬきで、恋愛も結婚も考えられなくなって来た。加えて、大戦争のあとには必ず何かの形で経済恐慌がおこる。そのとき、最も深い傷手を蒙るのは、いつも人口の大きい部分をしめる働く女性と青年たちである。
 真実の愛に立たない分別ある[#「分別ある」に傍点]結婚から、男も女もやがてどの位相手をあざむき、自身をごまかす副次結婚や恋愛に陥っているだろう。若い愛がまともに達成されず、途中で挫かれ、初々しい真摯さを愚弄されるために、いかほど、人間への信頼を失って肉体と精神との漂流をつづけている人があるだろう。売笑婦の増大、半売笑婦人の増大は、偽善めかした貞操論者の顔の上へはきかけられた資本主義社会の嘔吐である。失業を増大させるしか手腕をもたない冷血貪慾な支配者たちは、彼らを生んだ母なる性の屈辱をもって自身の穢辱をさらしているといえるのである。
 精神と肉体との愛における統一と、そのあらわれとして貞潔がある場合、その自然さ、よろこび、平安の深さは、人間の男女が感ずるすべての愉悦のなかで最も諧調にとみ、創造の魅力に満ちていると思う。
 純潔ということも相対的で、愛するものに対してだけ保たれるべきものだという考えかたがある。では、自分にまだはっきりした愛の対象がない場合、その人が守るべき何かの清純というものはあり得ないのだろうか。貞潔ということは、一面から見れば、その人々の人間的な趣味のよさにかかっているとさえいえる。最も野生な人間は、食えるものは何でも食う。最も非人間的な男女は人間らしさを放棄した性へ還元して、両性関係を生きる。真実に自分を一個の社会人として自覚し、歴史のなかに自分一生の価値を見出そう、生きるに甲斐ある一生を送ろうと希う男女であるならば、どうして、わけもなく、とび散る花粉のような恋愛に自分をよごすだろう。衣服の色、モードに対してさえ趣味による選択のある人間が、どうして最も複雑な愛の対象に、独特な選択がないといえよう。わたしの色、というものがあるからには、私としての愛があるこそ当然と思える。わたしの考え、わたしの生きかた、そして、わたしとしての不屈なる献身というものも生ずる。貞潔は、その男女がこの人生に対して抱いている全体としての操守の一つの表現なのである。常に生きかたの問題の一つである。そういう社会的な人間操持の一つの表現として貞潔を理解する男女は、人間として当然な各自の貞潔を破壊させるすべての社会の悪条件を排除しなければならないと切実に考える。愛を貫徹する自由こそ基本的人権の最も人間らしい要素の一つなのである。[#地付き]〔一九四六年十一月〕



底本:「宮本百合子全集 第十五巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年5月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「婦人公論」
   1946(昭和21)年11月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年6月4日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全3ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング