かかる未開人の間においても、なお愛情が最後の決定をする場合がある、といっているのである。
人間の男女は、自然のままの表現としてはこんな発端で、愛情の永続を希う意志表示をして来た。そのような未開社会の男女の結合の間で、貞操などという言葉は思いつきもされなかった。同じくらいの好きさなら、同じぐらいいやでないならば、相手の男女が変ろうと、そのときどきの真心といつわりのない愛が示された。
万葉の歌の多くを見ても、そこに何と瑞々しく恋愛の思いがうたわれていることだろう。花になぞらえ、雲にたとえて、男女相愛の思いは、直接な感覚に迫ったあこがれとして表現されている。しかし、稚い社会にふさわしく稚かったそれらの古代日本人の心情は、同じように燃ゆる思いが、一人から又他の一人へとうつることをあやしまなかった。そのような事情がめぐって来たとき一時に二人の男女を愛することに虚偽も作為もなかった。子供らが、何人かの友達をもち、その一人一人と心をこめ、興をつくしてたわむれる。なかでは特別にすきな相手もある。男女の恋愛も太古はそれに似たあどけなさ、動物に近い天真さで表現されていたのであった。
社会進化の過程で、奴隷という働き手が出来、その労働で富が蓄えられ、耕作・牧畜・その他の固定した土地からの収穫がふえるにつれて、部落の男、父親が、その財産の管理者として権力を発揮しはじめた。女は、その財産をうけつぐための子供をうむものとして、男の子のもたらして、としての意義から見られるようになった。彼等は、家畜の純血をこのんだ。今日でもサラ・ブレッドが珍重されるように、ましてや自分の大事な宝物と思われる財産のゆずりうけをする男の子は、厳重に、父親からのサラ・ブレッドでなければならないと思われて来た。
婦人に対して、社会が、生存の基本になるモラルとして、貞操を要求しはじめた第一歩は、私有財産というものが人間社会で権威をもちはじめた時期と歴史の上で一致している。そして、婦人は、世界史的に、原始の自然な女としてののびやかさを失い、家長、その父、その兄、その良人、その息子に従属する存在となり、一種の私有される家財めいた存在となったのであった。
こうして読めば、これは実に太古の社会史の一節である。人類の祖先たちに属する話というこころもちがする。ところが、このようにしてはじまった婦人の社会的地位の決定は、おどろくべき延長で今日もなお地球の大部分の文明国においても本質的には変化させられないままで来ているのである。
日本が今やっと民法における婦人の地位の改良に着手した。日本が近代資本主義の国として出発したとき、既に改正されるべきはずであった資本主義社会の枠内での婦人の人権が、今日ようやく認められて来た。そのくいちがいの大きさ。即ち、明治からの七十年間近くが半封建のかげを日本の婦人の生活の全面におとして来ていた。「家」という藤村の傑作がある。そういう文学作品の表題は中国文学の中と、日本文学の中にしかないだろう。バルザックは「人間喜劇」をかいた。しかし、日本の文学の中には「家」がある。鴎外の歴史文学の卓抜した諸作品には、「阿部一族」のように殉死という忠節の表現さえ、「家」を守る武家の痛ましい封建的な経済事情によるものであることを鋭く描き出した。婦人は「家」に属し、その利害に応じて一生を費し、「家」のために貞操を強要された。「家」の所属品として、きずのないことを求められつづけた。しかも、封建の女の生涯に「家」というものは何であったろう。「女は三界に家なし」無限の悲哀を誘うこの現実と、生殺与奪の権利をもった男たち、その父、その良人、その息子からさえ監視されて、貞節に過さなければならなかった女の生涯を眺め合わせたとき、私たちは心から慄然とする。女とはどういう生きものと思われて来たのであったろうか、と。
ヨーロッパ諸国の社会の進歩とルネッサンス以来の人間解放の方向とは、中世封建の社会から女にだけ強要された野蛮な貞操の縛《いま》しめをといた。世界に資本主義の生産と経済が発達するにつれて個人の権利は主張されて近代資本主義社会の機構の範囲で民主的な国々では、社会における男女の等しい権利とともに、その恋愛や結婚、離婚、互の愛への責任としての貞潔に対する同じ責任と義務とを見るようになった。中世は、家長によって禁じられた恋愛のために、数々の悲劇をもった。「ロミオとジュリエット」にしろ、「パオロとフランチェスカ」の物語にしろ、スタンダールの「カストロの尼」にしろ。近代キリスト教は、その資本主義社会のモラルとして恋愛と結婚の純潔を主張した。家庭の純潔をもとめた。相手に対して貞潔であること――精神と肉体とが互の愛の調和のうちに統一されてあることを求めているのである。そして、貞潔であるということは
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