う意味のことをも云われたと思う。何しろ十八や九の小娘が小説を書き出し中央公論に発表されたと云っても、謂わば芸術家としてそれはまだ海のものとも山のものともつかず、前途は茫漠としている。先生は、人生の練達者であられたから、恐らく様々な複雑困難な、日本の社会では特に女にとって面倒な将来の永い路を見とおされて、大乗的激励を与えて下さったのであったろうと思う。
それから、案の定私のところには生活のいろいろな大小の濤がおこり、十何年間に先生の宅へ上ったのは果して何度ぐらいであったろうか。
坪内先生の日本の文学における業績については私が敢て云うを俟たないものであるが、先生と私一箇との間に在った歴史的時間の内容は日本の明治大正史が語るよう極めて豊富であって、年齢の差以上のものがあったことはまことに興味あることであったと思う。
私にうかがい知られた先生の御気持の片鱗には私にわからなかったことがあり、私の過去数年の生活は、逆に先生にいかなる御感想を抱かせたであろうか。おめにかかれば、先生はああいう方であるからそつ[#「そつ」に傍点]のない、鷹揚な、包括力ある言葉をかけて下さったであろうと思う。
坪内先生は非常に聰明な資質の先達者であった。正宗白鳥氏が先日、逍遙博士は文学の師であるばかりでなく生死に処する道を教えた方であるという感想を書いておられたが、私は坪内先生の一生をあるべきとこにあって完璧たらしめた先生の聰明、努力、達見、現実性を学ぶとすれば、それは私の時代のものにとっては必然的に白鳥氏の言葉にふくまれているものとは全く相異した形をとって、現実にはあらわれて来るであろうと面白く思うのである。[#地付き]〔一九三五年四月〕
底本:「宮本百合子全集 第十巻」新日本出版社
1980(昭和55)年12月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「文芸」
1935(昭和10)年4月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年1月16日作成
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