先生にするよりもっとあらたまった静かなお辞儀をした。
 手を膝にのせてその水色を見つめて居ると、物恐ろしさは段々消えて、
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「ほんとにお叔父ちゃんは死んじゃった。
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と云う絶望的な、もうどうしても取り返しのつかない心持がはっきりし出して、私は大人の様な静かなそれで居て胸を掻きむしられる様に苦しい涙をこぼしたのであった。
 その次の日から朝、お水と塩を枕元の机に供えるのが私の役目になった。
 朝になると私は目が醒め次第暗い叔父の枕元に新らしいそれ等の供物を並べた。
 生きて居る叔父に食べ物を並べてあげる通りどこかでお礼を云われて居る様な彼の大きな掌が、
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「ありがとうよ、
 好い子に御なり。
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と頭を叩いて呉れる様に感じて居た。
 そして、常に叔父の云って居た事が間違わなければ、好い事をした人は好い所へ行く筈だから、
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 お叔父ちゃんも今にどっか好い所へ行くのだろう。
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と云う想像が非常に私を安心させて居たのである。

 納棺の朝頃であったと思う。
 どうかして周囲には人が誰も居ないで私丈がいつもの様に火鉢にあたりながら呆んやり座って居ると、後の唐紙をあけて、大変髭の濃い顔の角張った人が入って来た。
 私は一寸振返ったけれ共知らない人だったので黙って居ると、屏風の中に入って何かして居た其の人はやがて片身を外へ出して、
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「百合ちゃん一寸おいで、
 好いものを見せてあげ様。
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と手招きをした。
 私は何の気なしに、
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「なあに。
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と立って行くと屏風の中に入れられた。
 其処には厚い布団に寝かされて大変背の高くなった叔父の体が在ったけれ共別に変な感じも持たずにその人の後に居ると、顔の辺りに掛けてある白い布をめくりながら、
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 御覧。
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と云って身をねじ向けた。
 何だろうと思ってのり出した私は、
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 アッ、
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と云うなりつまずきそうになりながら屏風の外へ飛び出すと、激しい怖れでガタガタ震えながら自分で気がボーッとなる程大きな声をあげて泣き出した。
 私の声を聞き付けて馳け付けた母に抱かれて泣き止みはしたけれ共その時からどうしても棺の傍へもよれなくなって仕舞った。
 何と云う気味の悪い顔色で有ったろう。
 絵に見、自分の想像の中のお化けそっくりの細い骨だらけの痩せ切った顔の様子は少し開いた口の形と一緒にいつまでも私の瞼にこびり付いて離れなかった。
 私は生れて始めて見た死人の顔にすっかり怯えると同時に、死と云うものに対して極端な恐怖と嫌悪を感じ出した。
 此の妙な人の仕た一事によって七つの子の死に対する無邪気さは私の心からあらかた持ち去られて仕舞ったのである。
 彼那恐ろしげな顔をした形をした者共が好い事をしたからと云って一所へ集ったって何で奇麗な事が有ろう。
 一体何故人は死ななけりゃあならないのか。自分も彼あ云う風にきたなくなって仕舞わなけりゃあならないのか。
 死ぬなんて何と云ういやなこわい事だろう。私は自分の死と云う事さえ遙かに想像する程になった。
 そして、この時に起ったこの心の激変――子供心の非常に動かされた死に対しての観念は長い間私の心の奥に潜んで居て四五年立ってから不思議な力を以て、更に思いがけない今の私には殆ど夢の様な反対の方向に私を動かして居たのである。
 彼の荒武者の様な男の人の様子は種々な意味で私の記憶に明かに残って居る。
 何の為に彼那妙な事をする気になったのか。其の人の事を思うと一種異様な感じが私の胸に突き上って来るのである。

 斯様にして彼は死にやがて葬むられたのである。
 彼を知って居る者は皆彼の不運を歎いたけれ共其の死に様に関して唯一人の疑いを挾む者もなかった。
 勿論それまでの成り行きは決してどの様な特別な形式も取られては居なかった。
 彼は勧められて病院に入り養生をしたらしくあった。けれ共此頃、彼の心に湧いて居た事々が僅かながら解りかけて来た様な心持で種々考えて見ると、彼の死は非常に平穏な形式に依った一種の自滅ではなかったかと云う事を考えさせられる。
 誰も私に云ったのでも注意したのでもない。
 けれ共私はそう感じるのである。
 彼が死んだ時専ら種々の手当てをして呉れて居た或る医師が、
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「何と御止めしても御聞きなさらずに運動をなさったので……
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と云った事を聞いて居る。
 それは勿論医者として親族から受けなければならない不快な感情
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