津軽の虫の巣
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)紺碧《こんぺき》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)生類|憐愍《れんびん》のことに就て

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「(諂−言)+炎」、読みは「ほのお」、第3水準1−87−64、412−4]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)色はなか/\少しも変り不申候。、
−−

        一

 朗らかな秋晴れの日である。
 津軽の海は紺碧《こんぺき》に凪《な》いで、一点の曇りも無い虚空を豊かに照り返えす水の上には、これはまた珍らしく漁舟の片影も無い。
 閑静に澄んだ波の面には、微かに動く一二羽の水鳥が、大らかな弧を描いているばかりである。
 けれども、若し人がその海岸に立って、遠い彼方に瞳を定めたならばきっとその注意は、遙か水平線の上にポッツリと浮き出して小さい物の影に牽《ひ》かれるだろう。
 影は紛れも無い二艘の船である。
 微かながら、それ等の船は、真上の空に舞う水鳥の、翼の白さにも擬《まが》う真帆を一杯に張って、静まり返った水面を、我物顔に滑べって来るのが認められる。
 小豆粒ほどの影は、次第に大豆ほどとなり、やがては小人の船ほどの大きさになって、耳を澄ますと、微風につれて賑わしい船歌さえ聞えて来る。
 この二艘の大船こそ、誰あろうときの大守、十代津軽矩広を乗せて、三馬屋の泊から船出した、長者丸、貞松丸という吉例の手船なのである。
 歴代の津軽公は、参勤交代で江戸表への上下には、必らずこの二艘の手船で、津軽の海を超える慣例になっている。
 今度も、江戸表から、久しぶりに帰城する矩広を乗せて、二艘の船は悠々《ゆうゆう》と晴天の下に浮んだのである。
 御手船が見えたという報告は、今まで深い眠りに入っていたような城下を、一時にハッと目醒ました。
 急に騒然と人気立った要所要所にやがて一刻も過ぎた頃、船は恙《つつが》なく定めの船泊りに着いたのである。
 海上無事を知らせる合図の篝《かがり》が、傾きかけた大空を画って、白上峠の頂上から華々しく燃え上った。
 すると、暫らくの間を置いて、それに応える「清八」の狼
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