の沈丁の花が押されていた。強い香が鼻翼を擽《くすぐ》った。春らしい気持の香であった。
「私もこの花は好きよ」
「いいでしょう?」
千鶴子は前垂れをかけたまま亢奮して飛び出して来た、そのつづきの調子で、
「一寸この人字がうまいでしょう?」
など、断《き》れ断《ぎ》れに喋った。
「お上りなさいな」
「いいえ、また。これさえ香わせて上げればいいの、左様なら」
はる子に優しい感銘を与えたこの立ち話しのみならず、千鶴子はいつも帰りを急ぐ人であった。彼女は夜が好きで自分の勉強は夜中するのだそうであった。弟は昼間勤めに出る。朝八時までに食事の仕度をしてやり、それから昼前後までが彼女の安眠の時間であった。それ故、はる子のところへ遊びに来るのは午後だ。はる子も寝坊な女であったから、それは好都合だが、一寸話すともう四時すぎる。千鶴子は三十分位で帰らなければならない時があった。夕飯をたべてから弟は夜学に行った。その仕度を彼女はおくらせてはならない。――
もう永年のつき合いで、だが顔を見、やあというだけで気がくつろぐというのではないから、はる子は時に千鶴子の訪問から気ぜわしさだけをアフタア・イメイジとして受けた。家にいても堪え難い空虚を感じるらしく、千鶴子は、
「弟の帰るのが待ち遠しくて待ち遠しくて、この間もいきなり顔を見ると、――ちゃんと云ったきり泣いてしまいました。弟はまだ子供ですからね、困っていました」
と話した。
彼女をはる子に紹介した×さんが、
「女は結婚して損はないんだがなあ」
と云ったということ。また、×氏が、
「いくつです」
と云うので、
「二十五です」
と答えた。
「へえ――。いつの間にそんなに年をとりました。――×××が妻君をなくし、子供は三人あるが――どうです、その人と結婚する気になりませんか」
と云ったと云うことなど、千鶴子は屈辱を感じてはる子に話した。各々の言葉がその人らしくはる子は面白いと思いつつ、千鶴子の癪《しゃく》にさわった気持も分った。
「そう簡単明瞭には行かないわね」
然し、話すうちに、はる子には二三疑問が湧いた。
「あなた×氏には書いたものでもお見せになったの?」
「見ていただきました。――短いものでしたが褒《ほ》めて下さいました、そして、一二年みっしり努力すれば作家としてちゃんと立って行けると云って下さいました」
「それなら、どうして――例えばこの間のような時、×社で仕事を見つけて下さるようには出来ないの?」
「人があまっているから仕事はない、けれども生活費なら暫く出してやってよいと仰云るのですけれど――それに×氏は初めそんなに云って下すったきり、ちっとも後はおかまいにならないのです。御自分が文壇に出るに苦労なすったから却って」
他に感情の衝突らしいものもある話であった。
「一人の人間の心をそんなに傷めるのは、何と云っても先生の不徳だと思います」
或る時、はる子はそのような話の後千鶴子に云った。
「あなた本当にいい仕事をしたいとお思いんなるなら一つ暮し方を更える必要があるわね。自分がこうと思い込んだ先輩一人をきめて、その人に対しては自分の真実をつくして対して行くか、さもなければ、一人っきりになってぐんぐん自分の内に入って行くか――。ただ方便のように偉い人々のところを廻っていたって自分が立派にはならないと思います」
はる子は、千鶴子が、過度に自分の言葉に重み、完成さというようなものをつけ対手に印象を強いるような癖があるのなどもそんな故と思わぬではなかった。当然及ばぬものに向って背伸びするからと思うのであった。その日は、はる子が一緒に暮している圭子もそこにいた。千鶴子は、唇に一種の表情を浮べながら聞いていたが、
「私もそう思います」
と真直に受けた。
「あなたにお会いしてから、私少し自信がもてて来たのです。普通の人間、自分と同じような女の人がそうやって仕事をしているなら、自分だって出来るという心持がして来たのです」
「それは結構だわ――何か掴えたら放しちゃ駄目ね、本当に」
千鶴子は、そうでない証拠を示すように、
「この頃書いていますよ」
と云った。
多くの男の作家志望者の中に間々《まま》あるように出世の近路をあがき求めて千鶴子が×さんや×氏に出入りした。それは明らかであったが、彼女が内心に強い芸術上の競争心を含んでいるらしいのがはる子の興味を牽《ひ》きつけた。千鶴子の書いたもので読んだのは、彼女の小遣い取りの為、或る小さい刊行物へ圭子を通して載せて貰った漢文から種をとった短い教訓話だけであった。どこかひろがりと土台のある調子を感じた。はる子に対しても仕事の内容などについては口を緘していたのが愉快であった。彼女からは何が生れるか? よく実った稲ほど穂を垂れる。然し最もよく実る稲は若い時最も真直
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