ためすのは将来のことだ。今、彼女が必要なのは明日から住居と食物を与える職業だ。言葉数をきかないが、千鶴子が心でどんなに不安を覚えているか、それははる子の心にまざまざ映って来た。椅子の端に三角を逆にして立てたような内心の危うさでかけている千鶴子の頼りなげな姿は、はる子をもひどく不安にした。ほつれた髪を見つめ、当惑の腕ぐみをしつつはる子は、いっそ、暫く私のところにいらっしゃい、と云い切れたらさぞ吻《ほ》っとするだろうと思った。千鶴子が拒絶はしないであろう。ただ、はる子の親しみの感情が彼女に対して未だそこまで発育していなかった。性格の故で、千鶴子はそれに身の上のことも打ち明けては話さず、ほんの輪郭を、断片的に聞かせただけであった。何だか解らないところがあった。然しはる子は、こう困っている有様を見ると、
「ではまあさし当りもう一度××堂の×さんのところへでも行って見るんですね、私の方も考えて置きましょうから」
というお座なりで帰す訳には行かない気がするのであった。
 夜は段々と更けて来た。どこかで十時を打った。あたりは静かなので雨戸の外から聞えるその時計の音が、明るい室内のゆとりない空気を一層強く意識させた。その時まで暫く黙ってぼんやり考えに耽っていた千鶴子は、それでも時間に心付いたと見え、機械的に椅子から立ち上った。彼女は立ってからも障子を見つめていたが、のろのろはる子の方に振り向き、
「私カフェーの女給にでもなってしまおうかと思います」
と云った。その声はやっと聴える程細かった。
「×さんもそういう仕事をしていらしったんでしょう?」
 千鶴子は、そして、如何にもせっぱ詰った顔付をした。薄手な顔の筋肉一本一本に苦悩の現れた表情で、はる子は自分が胸を刺されたような苦痛に打たれた。今開く路ならどこへでも体ごと投げそうな千鶴子の前に思わず立ちはだかるように、はる子は、
「×さんがしたからって何もあなたが……」
と云った。稍々《やや》自分を鎮めてから、はる子は更に云った。
「まあもう少し坐っていらっしゃい。――貴女折角それだけの教育を受けたんだから、それを活かす職業を見つけた方がいい」
 帰すにも帰せない気がした。はる子は、不図散々知人の間を頭の中で模索した揚句、或る中年の婦人を思い浮べた。その人はこの頃大規模な辞書――百科全書を編纂していた。彼女の書店で、若しか一人若い筆の立つ女を助手として入用ではないだろうか。彼女自身役に立てる道はなくても、同じ仕事の他の方面を分担している人々が、万一|需《もと》めているかもしれない。――
「ああ、それが好い、あなた××の古い出の方で×夫人という方――御存じじゃないでしょうね、この方に一つ紹介を書いて見ましょう、範囲のひろい仕事をしていらっしゃるから、若しかすると何かあるかもしれない」
 千鶴子は、矢張り消えそうな声で、
「ありがとう」
と云った。はる子は紹介を書きつつ、或る不便を感じた。それは、千鶴子がこういう場合必要なだけ自分を打ち開いてくれていないので、×夫人に彼女を推薦しようにも個人的な材料のないことであった。はる子は已を得ず学歴のことだの、専攻したという科目だのについて書いた。
 ×夫人のところで不規則ながら収入のある仕事が与えられたという手紙が千鶴子から来た。間もなく使に出た家のものが、
「すぐそこで小畑さんにお目にかかりましたよ」
と帰って云った。朝だったので、はる子は附近に住む×氏を訪問したにしろ時刻が早いと思った。
「そうお、大変早いのね」
「この近所に御越しになりましたんですって。弟さんと御一緒だそうです」
「急にここへ引越しました。家は古くて奇麗《きれい》でありませんが、心持のよい人達です。×夫人のところへは歩いて十分で行けます」という意味のノートを貰った。×夫人の仕事でどの位の金がとれるのであろう。弟と二人暮せるのだろうか。はる子は一時安心しただけで、凝《じ》っと考えると矢張り千鶴子の生活を危く感じた。

 然し、この当座の仕事だけでも大分彼女の心持を休めたらしく見えた。春の日光が屋外に出ると暖く眩《まば》ゆいが、障子をしめた斜南向の室内はまだ薄すり冷たく暗いというような日、はる子はぽっつり机の前に坐っていた。からりと格子が開いた。
「いらっしゃいますか」
 千鶴子の声であった。出るといきなり、
「あなた丁字の花御存じ?」
と云った。
「丁字? 沈丁とは違うの」
「見て下さい、これ今お友達から送って下すったの。余りいい香《にお》いで嬉しくなったから一寸あなたにも香わせて上げようと思って」
 千鶴子は手にもっている封筒から、四つに畳んだ手紙を出し、土間に立ったまま、
「ほら、いい香でしょう」
と、はる子の前へ折り目を拡げた。女らしいペン字の上に細かい更紗飾りを撒いたように濃い小豆色
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