かというと自然発生的である。現実の現象の底流れを掴み、作家として自分の目をとらえた事象の底をついて整理し、頭から尻尾まで見とおした上で細かく筆を運んでゆくと云うのではない。べったりと、大局的抑揚少く、日から夜へ夜から日へと進んでゆく。ゴーリキイは自分勝手に現実を拵えない作家であると同時に、時には目の先の現実に押されたと思われます。
「四十年」が長篇として失敗していることには、加うるに他の原因があったでしょう。「四十年」はゴーリキイのソレント住居時代に執筆されたものでした。人々の驚歎するような精励をもって、ゴーリキイは当時のロシアの若い作家たちの生育のために助力していたし、ソヴェト社会の建設に注目をも怠らなかった。そうではあってもイタリーはイタリーなのであるし、日常の皮膚から入って来るような生活的影響というものは、何といっても違う。まして、ゴーリキイのようにロシアの民衆の一人として全く生活的な発展をとげて来ている作家、しかもその作家的気質の主な傾向は感性的な作家である場合、当時の波瀾極りなきロシアの建設の現実、その気分、その亢奮から遠のいていたことは、作家としてゴーリキイの内部の焔の高さ、明るさ、暖かさをどの位低めていたか分らない。ゴーリキイ自身が想像し得なかった程度の作用を及ぼしていたと思われる。従って、クリム・サムギンという人物の詰らなさ。この人物が四十年のロシアの歴史の波と結びついている、その関係の受動性、謂わば無気力、或る面での歴史の波から個人的な穴の中への遊離は、私達に、作家とその日常生活とはかくも緊密なものであるという一箇の教訓として見える位です。一九三二年にモスク※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]へかえってから、ゴーリキイが「四十年」を書き続けられなかったということこそ自然です。作家として、ロシアの歴史、民衆というもの、新社会というものに対する心持の内部的組立てが変ってしまい、日常の感動が新鮮な脈うちで彼の正直な、老いても猶純な血液を鼓動させる裡で、ゴーリキイはソレント生活の気分の中で、考照し、追憶したロシア民衆を書いていたそれをそのまま続けられなくなったのは尤ともと肯けます。そして、ゴーリキイの芸術家としての生涯は、こうして「四十年」を書きつづけ得なく成ったことで、遂に健全にされ、ゴーリキイ自身、自分の全生涯の過程と蓄積とを改めて人類的な見地か
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