長篇作家としてのマクシム・ゴーリキイ
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)筏《いかだ》
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(例)モスク※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]へ
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作品をよんだ上での感想として、ゴーリキイが中篇小説において長篇小説よりすぐれた技術、味いを示し得ていることを感じるのは恐らくすべての読者の感想ではないでしょうか。もしかすると、短篇が更にそこに横溢している生活感情や色彩熱量などの点で卓抜であるというひともいないではないでしょう。例えば「二十六人と一人」「チェルカッシュ」などを愛読したひとは。
ゴーリキイが、あらゆる点で豊富なテムペラメントを持っていたにかかわらず、極めて特色的ではあるが長篇作家として十分技術上の光彩を発揮し得なかったことは、興味深い研究心を刺戟します。最も基本的な原因は、ゴーリキイの作風が、自分の雰囲気で濃く描こうとする現実をつつみ込む性質であったからだろうと思われます。リアリストであり、客観的に現実を描こうとしていても、それは、描かれたものがそのものの独自性で作品の現実関係の中に立ち現れて来て、そこに錯綜した交渉を生じ、発展させてゆく(トルストイの作風)ような性質ではなく、情景も人物も、そのものとして色濃いながらいかにもそれはゴーリキイ風なと特徴づけられる種類の、総括的雰囲気にくるまれたものである。ゴーリキイは感受性の鋭い、智的というより感覚的な作家であって、目撃した人間の微細な動作、声や目の感じなど鋭利にとらえているけれども、人間と人間との輪廓、人間と人間との間に生じている遠近法などの把握では、常に何か茫漠としている。そういう部分がゴーリキイ的な地色で塗られている。色は多様で燦いているが輪廓が鮮明に動いていないところは、どこやらビザンチン式モザイックの趣があり、過去のロシアの民衆の内部にあった感受性の或る傾向を示すものではなかろうかと考える折があります。
一つの現実に対して、ゴーリキイは丁度ヴォルガ河がその上流から悠々と崖を洗い、草原をひたし、木材の筏《いかだ》を流しつつカスピ海にそそぎ入るように、目についた端の方から、一つずつひろがる流れにまき込んで書いてゆく。どっち
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