た。空腹ではあったし、料理は決して不味くはなかった。けれども、何といおうか、このごたごた種々な色ばかり目につく食堂に物を食べているのは、我々ただ二人ぎりだということは、食うという動作に妙な自覚を与えられる――つまり、その感じを少しつきつめて行くと、度はずれな人気なさと錯雑した色彩の跳梁とで何処やらアラン・ポウ的幻想が潜んでいそうな室内で、顎骨を上下させ咀嚼作用を営んでいる孤独な自分等が、変に悲しいということになるのだ。味覚から来る美味いという感覚は私共を頻りに陽気にさせようとする。けれども、周囲の雰囲気は、嗜眠病のように人を滅入らせる。――
 互に居心地わるく思っていると、もう食事の終りかけに、やっと一人、若いアメリカ人が入って来た。私共は本能的な人なつかしさで、彼が椅子の背を掴んで腰かけるのや、テーブルの下で長い脚を交互に動かしたりするのを眺めた。衝立の陰から、前菜の皿を持って給仕が現れた。辞儀をする。腸詰やハムなどの皿を出す。若いアメリカ人はそれを一瞥したが、フォークを取り上げようともせず、いきなり体じゅうで大きな大きな、涙の滲み出すように大きな伸びをした。
「――ああ、ねぶたいです……」
 眠たいのはもう馴れているとでもいうように、給仕は心得た顔つきで前菜をすすめなおした。
 ――ああ、ねぶたいです……
 私共は、一時間ばかりで、また荷物を持ち、ジャパン・ホテルを出た。

 一風呂浴び、三十分程仮寝をすると、Yは、
「ああ、やっとせいせいした」
と云いながら元気に目を覚した。その声で、私も目を開いた。時間にすれば、僅三時間足らずの前に経験したばかりのことだのに、この福島屋の長崎港を見渡す畳の上で目がさめた瞬間、ジャパン・ホテルに行ったのが、いつか遠い昔のような気持がした。Yも、同じような気持がしたらしい。
「三菱造船所が見えるね」
と、手摺のところにいたが、
「一体、あのホテル、どの見当なんだろう。ここから……」
 女中をよんで地図をとりよせた。
「さて、そろそろ研究にとりかかるかな」
 生来地図好きなYは、新しい町に到着し、先ず其処の地図を拡げる時、独特な愉快を感じるらしい。今度、長崎に来たのだって、謂わばYのこの地図に対する情熱が大分原因となっていた。最初、私共は、小石川老松町の家にいて、四月二十七日に自分達が東京駅から九州へ出発しよう等と夢にも考えていなかった。三月初旬に、Yは大腸カタールをした。家にいては食物の養生が厳格に行かない。「病院へ入る方がいいのよ、」と私が云った。「そう――だが温泉に行きたいな。」この一言が、我々を九州まで運ぶ機縁になろうと誰が思いがけよう。「温泉て――何処?」「別府どんなだろう。」「いやよ、駄目でしょう、あんな処! 俗地らしくてよ。」四月十五日過、二十日過、Yの或る仕事のきりがつく見込みがついたら、私共は遂に自制力を失った。仕様がない、何処から旅費が出るのよ、と困りつつ、嬉しさ一杯で私達が神戸迄の切符を買ってしまった。紅丸で別府へ行った。ここは予測の通り余り気に入らず、豊後の臼杵へ廻った。臼杵から先、中津の自性寺を見、福岡の友でも訪ねるか、いずれにせよ、軽少の財嚢に準じて謙遜な望みしか抱いていなかった。臼杵の、日向灘を展望する奇麗な公園からK氏の別荘へぶらぶら帰る時であった。Y、「どうする? やはり中津へ廻る?」「――ふうむ……」二人ながら進まない気持がある。天然痘がひどいのが一つ、小杉未醒氏の「大雅堂」によって、幾分自性寺の所蔵品に対する考えの変ったのが第二。「先刻地図を見たら、南を廻って長崎まで行くのも、小倉の方から行くのも大して違わないらしい。――折角来たんだから、どう? 一廻りしちゃおうじゃあないか」それこそ素敵だ! Yは、卓越したパイ焼職人のように、上手に地図と時間表とを麺棒に使い、貧弱な旅費の捏粉を巧に長崎まで延して来たのであった。
 宿を出、両側、歩道の幅だけ長方形の石でたたんだ往来を、本興善町へ抜け、或る角を右にとる。町家は、表に細かい格子をはめた大阪風だ。川がある。柳の葉かげ、水際まで石段のついた支那風石橋がかかっている。橋上に立つと、薄い夕靄に柔められた光線の中に、両岸の緑と、次から次へ遠望される石橋の異国的な景色は、なかなか美しかった。
 崇福寺は、黄檗宗の由緒ある寺だが、荒廃し、入口の処、白い築地の崩れた間を通って行くようになっている。龍宮造りの山門を潜り石段を登ると、風化作用によって一種趣のついた石欄がある。奥に、朱塗の唐門があり、鍵の手に大雄宝殿――本堂となっている。古色を帯びた甃の上の柱廊を以て、護法堂その他の建物が連絡されている。総て朱塗だ、新に余り品質のよくない塗料で修繕した箇処もある。歴史的に古く、特別保護建造物となっているのだが、私共は大して心を打
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