た洋館の閉された窓々が、まばらに光る雨脚の間から、動かぬ汽船の錆びた色を見つめている。左右に其等の静かな、物懶いような景物を眺めつつ、俥夫は急がず膝かぶを曲げ、浅い水たまりをよけよけ駈けているのだが――それにしても、と、私は幌の中で怪しんだ。何故こんなに人気ない大通りなのであろう。木造洋館は、前庭に向って連ってい、海には船舶が浮んでいるが、四辺人の声というものがしない。遠方の熾んな活動を暗示するどよめきさえ、昼近い雨あがりのその辺には響いて来ない。商館の番頭、小荷揚の人足も、長崎では今が昼寝の時間ででもあるのだろうか。一つの角を曲る時、幌の上を金招牌が掠めた。黒地に金で“Exchange. Chin Chu Riyao.”然し、ここでも硝子戸の陰に、人の姿は見えない。
五月の『文芸春秋』に、谷崎潤一郎さんが、上海見聞記を書いておられる。なかに、ホテルについて、マジェスティックが東洋第一といいながら、ボルト酒のよいのを持たない、「長崎のジャパン・ホテルにだって一九一一年のブルガンディー酒があるくらいだのに」云々とある。読んだ時、私は思わず頬笑んだ。秘密な愛すべき可笑しさが、ジャパン・ホテルにだって[#「にだって」に傍点]という四字からひとりでに湧き上って来るのだ。
今もいった通り、異様に森閑とした波止場町から、曲って、今度は支那人の裁縫店など目につく横丁を俥は走っている。私は、晴やかな希望をもって頻りにその町のつき当り、小高い樹木の繁みに注目していた。外でもない。我等のジャパン・ホテルは確にそこに在るらしかった。緑の豊かな梢から、薄クリーム色に塗料をかけた、木造ながら翼を広やかに張った建物が聳え立っている。そのヴェランダは遠目にも快活に海の展望を恣ままにしているのが想像される。大分坂の上になるらしいが、俥夫はあの玄関まで行くのであろうか。長崎名物の石段道なら、俥は登るまいなど、周囲から際立って瀟洒でさえある遙かな建物を眺めていると、私は俥の様子が少し妙なのに心付いた。俥夫は、駈けるのを中止した。のたのた歩き、段々広くもない町の右側に擦りよって行く。曲角でも近いのかと、首をさし延し、私は、瞬間、自分の眼を信じ得なかった。ジャパン・ホテルは、彼方の丘のクリーム色の軽快な建物などであるものか。つい鼻の先に横文字の招牌が出ている。而も、その建物を塗り立てたペンキの青さ! 毛虫のように青いではないか。私の驚きに頓着せず俥夫は梶棒を下した。ポーチに、棕梠の植木鉢が並べてある。傍に、拡げたままの新聞を片手に、瘠せ、ひどく平たい顱頂に毛髪を礼儀正しく梳きつけた背広の男が佇んでいる。彼は、自分の玄関に止った二台の車を、あわてさわがず眺めていたが、荷物が下り、つづいて私が足を下すと、始めて、徐ろに挨拶した。
「いらっしゃい」
ホールへ入りながら、そして、外側はあんな青虫のように青かったのに、内部一面は見渡す限り茶色なのに、また異った暑気を感じながら、私は、
「一寸お昼がたべさせて欲しいのだが……」
と告げた。――これは予定の行動であった。若し第一瞥が余り思わしくなかったら、お昼だけに仕て置こうという停車場での相談を、私は適宜に運用したに過ぎない。
「どうぞこちらで暫くお待ち下さい」
番頭が、ホールの隣の戸を開けた。
南欧風に、中庭を囲んでぐるりと奥ゆきある柱廊づきの二階が建廻されている。やはり緑色ペンキ塗の大きい部屋の鎧戸は閉り、中庭に咲き盛っている躑躅《つつじ》の強烈な赤い反射が何処となくちらついているようだ。私は、必要な場所場所を探険して、戻った。Yは、明治十七八年頃渡来したまま帰るのを忘れた宣教師の応接間のような部屋で、至極安定を欠いた表情をして待っている。
「――支那的ね」
「この位の規模でないと遣って行けないんだな、長崎というところは……」
「――駄目でしょう?」
「どんなだった?」
勝気な女らしく潔癖なYが、気味わるげに訊くので、私はふき出し、少し揶揄《からか》いたくなった。
「そんなじゃあないわ。支那へ来たと思えばよすぎる位よ。――でも――いそうね」
「何が」
「なんきんむし」
「御免、御免! 風呂とはばの穢いのだけはかなわない」
――どうもホテルにいるという気分がしない。すると、幾許もなく、建物の一隅から素晴らしい銅鑼の音が起った。がらんとした建物じゅうにはびこる無気力な静寂を、震駭させずには置かないという響だ。食事の知らせである。
がっしり天井の低い低い茶っぽい食堂の壁に、夥しく花鳥の額、聯の類が懸っている。棚には、紅釉薬の支那大花瓶が飾ってある。その上、まだ色彩の足りないのを恐れるかのように、食卓の一つ一つに、躑躅、矢車草、金蓮花など、一緒くたに盛り合わせたのが置いてある。年寄の、皺だらけで小さい給仕が、出て来
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