たれなかった。後に迫って山を負っているため、陰湿だ。それに昔の支那――明人の建築には思いがけず木材など細いのが使用されてい、こせつき、複雑で、悠暢としたところがない。建物と建物とをつなぐ甃の柱廊は、美観の上で実に重大な役目を持つものと思う。崇福寺の建物は、狭いところに建てられている故か、大切な柱廊が、その通景に余韻を生ぜしむるだけ堂々と伸びやかに横わっていない。浅く、ただ礼拝する寺で、精神の活躍する場所として必要な底強いゆとりが建築上欠けているという印象である。木材が一面朱塗だということもその感じには関係があるらしい。
 住職がばたばた扉を閉めて行った本堂前の、落葉のある甃を歩き廻りながら、私共は、懐しく京都の黄檗山万福寺の境内を思い出した。去年、始めて私は観たのだが、彼処はよかった。全くよかった。ちょうど今より数日遅いやはり晩春であったが、山門の左右の聯の懸った窟門から、前庭の松花を眺めた気持。多分天王殿の左翼からであったろう。竹林の蔭をゆるやかな傾斜で蜒々と荒れるに任されていた甃廻廊の閑寂な印象。境内一帯に、簡素な雄勁な、同時に気品ある明るさというようなものが充満していた。建物と建物とを繋いだ直線の快適な落付きと、松葉の薫がいつとはなししみこんだような木地のままの太い木材から来る感銘とが、与って力あるのだ。
 黄檗の建物としてはどちらが純正なものなのか。或は唯造営者の気稟の相異だけでこうも違うのか。私共は解答者を得ない疑問を持ち合ったまま、再び山門を出た。唐門の剥落した朱の腰羽目に、墨でゴシック風の十字架の落書がしてあった。木庵の書、苑道生の十八羅漢の像などを蔵しているらしいが時間がおそくそれ等は見ず。
 片側には仏具を商う店舗、右は寺々の高い石垣、その石垣を覆うて一面こまかい蔦が密生している。狭い特色ある裏町をずっと興福寺の方へ行って見た。もう夕頃で、どの寺の門扉も鎖されている。ところどころ、左右から相逼《あいせま》る寺領の白い築地の間に、やっと人一人通れる位の壊れた石段道が、樟の若葉からしたたる夕闇がくれ、爪先のぼりに風頭山へ消えているのが眺められた。
 雨あがりの日であったためか、長崎の街は、同じものさびるにしても、奈良、京都などとは趣を異にしていたのを感じた。奈良などの建物が古びたのは、あの乾燥した日光と熱とに照りつけられ徐に軽いさらさらした塵と化すとい
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