遙に港内が瞰下《みおろ》せた。塗り更えに碇泊して居るらしい大きい二隻の汽船の赤い腹の周囲を、小蒸汽が小波立てて往来する。夕飯前の一散歩に、地図携帯で私共は宿を出た。彼此《かれこれ》五時頃であったろうか。
 雨あがりだから、おっとりした関西風の町並、名物の甃道《いしだたみみち》は殊更歩くに快い。樟《くすのき》の若葉が丁度あざやかに市の山手一帯を包んで居る時候で、支那風の石橋を渡り、寂びた石段道を緑の裡《なか》へ登りつめてゆく心持。長崎独特の趣きがある。実際、長崎という市は、いつの時代にか到る処に賢く豊富な石材を利用したばかりで、すっかり風致に変化を生じた都会だと思う。木材を愛す日本人に比較し、その事業を完成したのは、所謂|唐人《とうじん》達の手柄であろうか。長崎の市を、何等史的知識なく一巡した旅客の記憶にも確り印象されるのは、この水に配された石橋の異国的な美や古寺の壮重な石垣と繁った樹木との調和等ではあるまいか。長崎には夥しく寺がある。その寺々が皆港を見晴らす山よりに建てられて居る。沢山の石段を自然に悠くり登り、登りきった処では誰しも一息入れたく成るだろう。其時人々の前には、眼界遙かに穏やかな入海と、櫛比《しっぴ》した町々の屋根が展開される。
 今籠町の黄檗宗崇福寺へ行って、唐門《からもん》前の石欄から始めて夕暮の市を俯瞰した時、その心理的効果がはっきり感じられて面白かった。
 崇福寺は由緒も深く、建築も特別保護建造物になって居るが、私共の趣味ではよさを直感されなかった。京都の黄檗山万福寺と同様、大雄宝殿其他の建物を甃の廻廊で接続させてあるのだが、山端《やまはな》で平地の奥行きが不足な故か、構造の上でせせこましさがある。数多《あまた》の柱列を充分活かすだけの直線の延長が足りないとでも説明すべきなのか。京都の万福寺の建物では智的であり意力的な線の勁《つよ》さを感じたが、此方の建物から其感銘は受け難かった。時間がおそかったので、本堂の扉が住持が閉めたところであった。宝物は一つも見られず。千呆禅師が天和二年に長崎の饑饉救済をしたという大釜の前に立って居ると、庫裡《くり》からひどく仇っぽさのある細君が吾妻下駄をからころ鳴して出て来た。龍宮造りの楼門のところで遊んで居る息子を頻りに呼ぶ。息子は来ず、労働服をつけた男が家に帰るらしく石段をかたかた下から登って来た。唐門を入ったつき当りの低い築地《ついじ》から枝をさし出した一叢《ひとむら》の紅薔薇が、露多い夕闇に美しかった。
 夜、一番賑やかという西浜町へ出て見る。鼈甲細工屋と、洋傘屋の多いのに驚いた。長崎の初夏は、女の人々に洋傘がこれ程重大がられるのだろうか。鼈甲、品質はよいのだろうが、図案もう一息。特に飾ピンなど。寄合町迄行って帰りに驟雨に会った。

        第二日

 多忙な永山氏を煩すことだから、大奮発で七時起床。短時間の滞在だから永山氏に大体観るべきところの教示を受けたいと、昨日電話して置いたのだ。紹介状には、私共二人の名が連ねてある。ところが、Y、昨晩床に入る時、大分工合を悪がった。天然痘流行の為、私達は念の為大分の臼杵《うすき》で種痘をした。Y、十四位のとき種痘したぎりで、どうも全感らしく、崇福寺の裏の高い段々を降る時など、気分が悪くなったらしかった。今朝、発熱し動かれない。私一人行く。
 長崎図書館は、諏訪公園内に在る小ぢんまりした図書館だ。昔、グラント将軍が来た時、滞留させるに適当なところがなく、其為に交親館というのを此処に建ててその用に供した。其を改造したものだそうだ。入口から、上野のように陰気で物々しくないのがよい。
 永山時英氏は、長崎史研究者として権威ある人。昨今出版された大部な切支丹資料研究は、插画を見た丈でも益されることが多大だ。鹿児島出身。三時間に亙って懇切に私の質問に答えたり、書庫を見せられたりした。書庫には、出島|和蘭《オランダ》屋敷の絵巻物、対支貿易に使用された信牌、航海図、きりしたんころびに関する書つけ、シーボルトの遺物、フェートン号の航海日誌、羅馬《ローマ》綴の日本語にラテン語を混えた独特な趣味あるミッション・プレス等々価値あるものが沢山ある。
 其節永山氏も云われた通り、長崎市が博物館を未だ持たないのは、まことに残念なことだ。市が現在は、寧ろ歴史的背景によって存在して居るような状態でさえあるのに。各箇人としては充分に資料も持って居るのに、其を集めて博物館とする迄に到らない原因、確に永山氏の説かれる通り、長崎人の伝統的な気質――会所からの配当金で楽々生活して居た時代から、あくせく知らず――が重大な関係をもって居るだろう。その上、長崎人は、鹿児島の人々などと違い、自分達の祖先の生活に流れこんだ外国文明に、郷土文化との対立や文明史的の客観を持ち難い
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