てから、歯入れやの店の様子がどことなく変って来た。世間一般に革草履だの本天の花緒だのが代用品になってゆく頃で、歯入れやの爺さんの店先は益々空っぽになって、がらん洞なガラス戸棚の奥に貼った緑色の模様紙の褪《さ》めたのがいきなりむき出しになった。それにもかかわらず客の体がやっと入るぐらいの店頭に何とはなしのうるおいが出来た。奥の方で紅い友禅の布《きれ》が動いているのが往来から見えた。それをいじっているのは爺さんとはちがって大柄で目鼻のきつい歯入れやの神さんであった。半纏をひっかけた近隣のかみさんがその前に坐って頻りに何か布をいじりながら相談している。奥いっぱいにひろげられた裁ち板の前で歯入れやの神さんは、大柄で体に或る権威を湛えながら、対手をしている。爺さんが軒下に立って冬の陽向《ひなた》で腰をのしているときの顔にも微かに油気がついた。毎日毎日神さんは裁物板に向って坐っていて、これまで何をたべているのか分らなかったような店の奥に人間がものを食う賑いの気配も動いた。
この町にそうやって紅い友禅の色が見えはじめたということはとりも直さず、それにつづいてもっと大きな変化がおこって来る潮先の徴候
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