糸の赤坊ケープがつくり出されていた。それを眺めながらサヨは、ふとある婦人作家の小説の中に描かれていた一つの情景を思い出した。それは、何年も一緒に暮した良人と愛の破綻からわかれなければならないことになった若い女が、女友達とつれだって、秋の西日のさす丘の上の町を家さがしに歩きまわっている場面であった。一つ角を曲って新しい道へ出たと思うと、やっぱりそこには西日の照る前のつづきの通りがある。散々歩いても一人の若い女が子供をつれて新しい生活を営むべき貸家は見つからないで、夕暮|木犀《もくせい》の花の下をくたびれて歩いているとき、その若い女が覚えず洩らした深い歎息は、ああ、こんな思いまでしなくちゃならないものなのかしらという謙遜なひとことであった。しかしそのひとことには、女が生活の中で負ってゆかなければならないすべての意味がこめられているようで、その情景からはサヨの心に刻まれたものが深くあった。女が自分から自分の生活への態度として一軒の家をも持ってゆくようになるその過程で女は実にどれほどのことを学ばなければならないだろう。
友子が、
「ああそうそう、乙女さん、あなたのところへよりましたか」
ときいた。
「いつ?」
「ゆうべ」
「来なかったわ」
「――あのひと、田舎へ行って来たって、本当かしら……」
サヨは不安げな表情になった。
「何とか云ってた?」
「云わなさすぎるんですよ、行って来たにしては。勉さんの三周忌だったのに。ひょっとしたら、うっかり忘れてしまったんじゃないのかしら」
みんなの友達であった勉が、真面目で辛酸な若い生涯を終ったとき、あとにのこされた乙女と小さい娘の生活に対しては、親しかった何人かの友達が、誰からも求められてはいないがぼんやりした責任のようなものを感じて来ていた。
勉の年とった親たちは、亡くなった息子の代りに、嫁の乙女を一家の稼ぎ手として離すまいとしていた。乙女はそれが重荷で、娘をつれてマージャン倶楽部へ住込みでつとめたりしていた。気のいいコックの男がいて、それが乙女を散歩にさそっては、一緒になりたいと云っているということが乙女の口から友達たちに話されたりした。亡くなった勉は詩人になろうとしていた。だけれども、気のいい男だというのなら、乙女にとってコックという商売はそんな困った職業だったろうか。
ところがその話はそれなりになって、サヨが今度の家を
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