現在でも開成山の家の戸棚に、赤ラシャの布につつまれてしまってあります。
 一九一八年に数ヵ月ニューヨークへ出かけた折の分も散逸してしまって居り、一九二九年五月、一家を引連れてヨーロッパ旅行した節のも、これぞというのがありません。この旅行の初めに、やはり父の気持ではエハガキ通信をつづけるつもりであったらしく、留守宅あてに「西欧行脚」という題で、これから送る通信なくさずとって置くように、と書いていますが、アルバムの様子で見ると、父自身やがて書き送らなくなってしまったようです。家には、そのようなハガキを待っているという人も居なかったし、不馴れな多人数での外国旅行で、さすがの父にも、この「西欧行脚」を完結することは不可能であった有様がうかがわれます。
 以下に、折々の通信のほんの一部分を抄出し、これらの通信の書かれた当時の雰囲気紹介のため、懐しい父への愛着のため、娘の思い出によって註を附しました。[#地から2字上げ](百合子記)

    書簡(一)

[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
註。イースタン・アンド・オリエンタルホテルの絵葉書。父のほかに「いが栗老人」などと自署された他の
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