ないのであるが、彼女には判らない。「愛とは本当に美しく自由なものなのかしら……人間は優しくて而も強くなれるのかしら? 女に危険と服従を伴わない愛があり得るのだろうか?」アグネスはアーネストとの間に自分の望むものを皆見た。しかしなお「性と子供の心配が行く手を遮った。」愈々《いよいよ》アーネストと結婚登録した時、アグネスは「性を伴わない結婚」「ロマンチックな友愛」を考えていたのであった。
 実際の結婚、姙娠、子供を産み食物と着物とを良人にたよってそのために永劫命令されて生きなければならない女の地獄に対する恐怖、悲痛、憎悪の感情。愛という名を通じていつの間にか自分をそこにひき込もうとするものに対する殆ど病的な程の鋭い警戒と敏感な恐怖。それらが、最も原始的な荒々しい形で、正直な善良なアーネストとアグネスとの三年間の生活を破局に導いた。アグネスは、小説の中で云っている。「私には今こういうことだけが分っている。彼を苦しめたよりも更に深く苦しみながら私がもがいたのはアーネストに対してではなかったのだということが、愛の必要と欲求と、私の生れたそもそもの初めからこすりこまれた愛と性とに対する歪められた観念との間に、仮借することない闘争が私の心の中で行われていたのだ」と。
 この問題について非常に私たちの注意をひくところは、アグネスが、常にはっきりと肉体的な性的欲求や衝動を自覚していて、そのことに関して微塵も幻想をもっていない点である。この世の中の実に夥しい女の不幸は、彼女自身、自分の肉体を知らぬこと、性慾と愛情との相互的な関係やその間の区分やを知らないことから発生して来ている。アグネスの不幸は、環境から性的なものを最も素朴な発動の形で男女の関係の間に知っていて、しかも彼女が人間としてより自由な、より豊富な情操の発展として愛を望むと、その方向には既成社会が、貧困、無智、過労とともに下層階級の女の肩に一際重くなげかけている妻、母としての半奴隷的苦境が見える現実である。
 アグネスは、アーネストと分れて後、成熟した一人の女として、性的な衝動を恥じる偽善に反撥を感じてからは、「この羞恥心に挑戦して立ち上って」「行為によって反抗した。」何人かの男と友愛から進んで同棲し、そして何人かのそれらの男のもとから去った。理由は、この小説の最後をなしているアナンドとの深刻、複雑な政治的背景をもつ悲劇的別離をのぞいて、常に「深切や恋愛に憧れ」つつ「これらのものを恐れる」気持、「人は恋をすると容易に奴隷になってしまう」「私は奴隷になりたくない。自由は恋愛よりも崇高だ」。「少くとも今日においてはそうだ」という彼女の所謂《いわゆる》理知の命令にしたがった結果なのである。
 情熱的な、自然児風な魅力あるアグネスは場合によっては極めて単純に恋愛の感覚に運ばれてしまう。「度々単にある境地に押し流される」すると、程なく「理性と猛烈に闘っていて」彼女の打ちひしがれた心が「再び反抗して立ち上った。」
 そうして、仕事にかけては機敏で実際的で、明敏でさえあるアグネスが「再び[#「再び」に傍点]反抗して立ち上って」結婚というものを否定しはじめると、これは又何と痴鈍に頑固に、非現実的に偏執的になるのであろう! この点では殆どすべての読者をおどろかすものがある。アグネスは、結婚の腐敗から女を救い、よりましな結婚を存在させる社会をつくるためには、一組一組ずつの結婚生活が、今日の現実の中で、最前をつくしてよりましなものにする努力に於て営まれてゆかなければならないという事実を、全く考えて見ようとも思っていない。性的牽引としての恋愛と結婚とはアグネスの内部で自由と奴隷の二つの極端に立たせられ、観念の上においてさえ決して和解出来ぬもののように現れている。彼女を愛す善良で進歩的な男たちが、新しい内容で男女の結婚生活の可能を説得しようとしても、アグネスは執拗にその手をふりもぎって、最も悲惨な形での妻、母の生活の絵から、目をはなそうとしない。彼女の幼年時代、少女時代、その境遇は十分彼女の心にその恐ろしい画面をやきつけたであろう。しかし、そういう妻及び母としての女の負担は、現代に生きる自分たちの生涯を貫いての献身と努力とで将来社会的に軽減され得るものである。決して一人の機敏な精力的な女がアナーキイに感情の二つの極から極へとのびうつる輾転反側では解決しない。アグネスが、例えばソヴェトの新生活の意義についてこの小説の中でも簡単ながら触れているにかかわらず、自身の女としての苦悩は、新社会でどう解決、統一の方向に実行されているかという点に注目を払わず、只個人的に、内面的感情的葛藤の範囲でしか、とりあげていないのは残念である。自由と恋愛とが「いつかこの二つのものが、一つになる日が来るだろう」と云いつつ、自分の生きかたで彼
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