下げ終わり]
 不安がってオドオドして居る様子を見ると死ぬまで自分のそばに置いた方があの女にとっては幸福かもしれないとなんか思えた。
 それから四日ほどして新らしい女が来た。
 書斎に通されて落つきのない腰かけ様をしてつれて来た人は女の身元を話した。
 東北の生れで孤子だそうで二十二でおととし関西の女学校を出たと云った。
 女はうす赤い沢山の髪をおっかぶさる様に結んで鼻は馬鹿馬鹿しくうすくてツーンとした変な感じのする顔を持って居た。
 でもそんなに不器量じゃあない。
 紋八二重の羽織に糸織を着て居た。
 気は利きそうであった。
 女を置いて帰って行く時、給金はどうでも好いが、
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 家柄も相当でございますから嫁にもあんまりな所へやりたくないって申して居りますから少しずつは進歩して行く様に御心がけ下さって。
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と云って行った。
 千世子は何だか肩が重くなる様な気がした。
 けれ共今度の女は年下の千世子に云われた事なんか一々真面目になんか聞きそうもない目附をして居た。
 名は清と云い話しっぷりでは□□□□□□□□[#「□□□□□□□□」に「(八字分空白)」の注記]に居たらしかった。
 一日二日居るうちに気の利く事はたしかに分った。
 けれ共それがわかると同時にやたらにすれてる事もわかった。
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 喰わされものだ。
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 千世子はこんな事も思って居た。
 自分の時間になるとしきりに小説めいたものを書いて居るくせに家がやかましかったから芝居を知らない活動も見た事はないなんかと云って居た。
 お品ぶっていやに取りすました様子をした。
 何か軽口にじょうだんを云って、
「ハハハハハハ」
と鼻の先でヘラヘラ笑いをする「きよ」の顔を見ると千世子は、
「ヘッ、」
と云ってやりたい様に思った。
 咲は毎日毎日の事をほんとうに念入りに清に教えて居た。
「西洋洗濯から取って来たシーツはここに入れてね、
 肌襦袢に糊をつけたのはおきらいなんですよ。」
 寝部屋からそんな事を云って居るのが聞える事もあった。
 食事の時なんかに千世子の好きなものとそうでないものとを教えて居るのなんかを聞くと何だか悲しい様な気持さえした。
「でも納豆と塩からなんかがおきらいな位ですもの、困りゃあしませんよ。」
と云って居るのもきいた事があった。
 新らしいのが来てから十日ほど立って、
「いつまで何してもきりがございませんから、
 明日か明後日お暇をいただこうと思って居ります。」
とさきは案外落ついて云った。
 千世子は買って置きの銘仙の反物と帯止と半衿を紙に包んで外に金を祝儀袋へ入れた時それを持ち出すのが辛い様な気がした。
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 体を大切におし、
 行った先は知らせるんだよ。
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 こんな経験のない千世子はこう云う時にどう云ったら一番好いんだかわからなかった。
 さきは、涙をこぼすばっかりで何とも云えなかった。
 そして出て行くその時まで、
「またいじめられたら参りますから、
 どうぞ、死ぬまでお置き下さいませ。」
とくり返しくり返し云って居た。
 千世子は上り口まで送って行った。
 汽車の時間に後れるといけないからとようやっと出してやりながら泣きぬれた顔をかくす様にして車にゆられて行く女を見た時も一度呼び返して肩でも抱えてやりたい様に思えた。
 後から行く車の幌のすきから、林町の家でもらった中古の小箪笥が遠くまでも見えて居た。
 翌々日かなりしっかりした手蹟《て》で安着の知らせと行く先の在所と両親の言伝を書いたさきの手紙がとどいた。
 それを千世子はいつもになく引出しにしまったりした。何となし足りないものが有る様に千世子は毎日少しばかりずつ書いたりして暮して居た。
 五月の月に入ってから千世子はとうとう旅へ出る事にきめた。
 身一つな千世子は気の向いた時着換えを入れた小さなドレッスケースを一つ持って新橋へさえ行けば事がすむんだった。
 天気の静かな日が二三日つづいた時千世子は何とはなし落つきのない心を抱えて林町へ行った。
 せわしそうに妹に、
「私ね、今度一寸海へ行って来ようと思うんです、
 いつも体をわるくするから。
 それでねえ、
 まだあの女が来て間がないから気の毒だけど信用がないんですよ。
 だから暇々にちょくちょく誰か見せにやって下さいな、夜だけ、じいやを、とまらして下さると尚いい。」
とたのんだ。
「姉さんはいつでもほんとうに短兵急な方だ、
 幾日位行っていらっしゃるの。」
「二十日位、せえぜえ。
 私だってそう暢気でもないんですよ。」
 妹にうけ合ってもらって千世子は安心して家に帰った。そしてすぐ、きよにその事を話した。
 別にいやがりもしない様子を図々しいなあとも思ったけれど心強い様にも思った。
 翌日の午前、宿へ電話をかけてから千世子は二三枚の着換とその他の細っかいものを入れた。
 そして女中に留守中の小使銭をわたし、来た手紙の至急なのはあっちへ送る様にそうでないのはこれに入れて置いてお呉れとわざわざ小箱を出してやったりした。衣裳戸棚やその他のいらないものへ鍵をかけてそれを帯上げの前の方へ巻きつけながら、
「出窓をあけっぱなしに仕ておいちゃあいけないよ、林町から誰か来て居る時でなけりゃあ出ない様にね。」
 なんかと云った時にはつくづく女主人と云う気持を味わった。
 忘れるといけないと思ってわざわざ向うの所を書いて女中部屋の柱にはりつけさせた。
「それでも失くしたらね、
 林町で聞けばすぐわかるよ、
 私が海へ行くと云えばきまってるんだから。」
 千世子はたった一人二時の汽車で立ってしまった。
 汽車の中で約束違えをして来た例の二人に葉書を書いた。
「お約束を違えましたが今日小田原へ立ちました。
 二十日ほど御幸ヶ浜の養生館に居ます。
 書架が開いてますから留守へも行ってやって下さい、
 女中が淋しがってましょうから。」
 一枚の葉書に二人の名宛を書いた。
 万年筆の少し震えた字を見なおそうともしないで、東京でこの葉書をうけ取った二人の顔を想像して居た。
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 あんな人達に送られて仰山ぶって二十日ぼっちつい鼻の先へ出かけるものがあるもんか。
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 千世子は何となしに肩がスーッとした様であった。
 誰の事も心配しずに二十日の間海を見て暮せると云う事は下らない事のゴチャゴチャつづいた後にはたまらなく慰めの多い事で自分の体がほんとうに自分のものになった気持がした。
 同車の男がマッチをするのを見て千世子は火の用心をおし、と云って来るのを忘れたのを思い出してたまらなく不安心になった。
 けれ共それも気のつかない内に忘れてしまって単調で有りながら注意味の深い様なカタコト、カタコトと云う音に、どこまでも運ばれて行きたい様になって居た。



底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
   1981(昭和56)年11月25日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本では会話文が1字下げで組まれ、終わりかぎ括弧(」)が省略されています。このファイルでは、会話文の字下げ注記を省略する一方、地の文との区別のため、終わりかぎ括弧を補いました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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