な事どうでもようござんすねえ、
気が向いたらいらっしゃるがいいし、
そうでなかったら御やめなさるがいいし、
御義理ずくで『いやいやながら』でなけりゃあどうだってようござんす。」
「ひまっつぶしでしょう。」
「そうでもありませんよ、」
「仕なけりゃあならない事はいつだって仕ますもの。」
「でもねこの近いうちにどっかへ一寸行って来たいと思ってるんですよ。」
「どこへです?」
「海へ。」
「山は御いやなんですか。」
「山ってば温泉の近所ででもなけりゃあ静かすぎましょう。
私は小ぎたない山ん中の温泉なんかあんまり好きませんもの、
温泉なんかへは気の合った友達とでも行かなくっちゃあ居られるもんですか。」
「私は百姓達にまじって下手な義太夫や講談をきくのがすきなんです。」
篤は徒歩旅行をしてそこいら中の温泉を歩き廻った時の事を話した。
真黒な体の男や女が山の中の浅い井戸の様に自然に温泉の湧く穴につかってガヤガヤさわいで居るのを見た時はまるで南洋にでも行った様に珍らしさと気味悪さがゴッチャになって大いそぎで帰ったなんかとも云った。
千世子は山形の五色の温泉へ祖母と一緒に行った時、湯殿をのぞいて居た青光りのする眼玉を思い出して身ぶるいの出る様な気がした。
「私の行った温泉の中で飯坂の温泉はかなり気持がようござんしたよ。
私は妙に東北の温泉へばっかり行きましたからねえ。
和久屋ってね、
昔お女郎屋をして居たんだって、
作りなんか、かなり違いましたけど磨きの行き届いた広い階子や女王のきゃしゃな遊芸の上手なのなんかはどことなし他所と違ってました。
雨なんか降ると主婦と娘の、琴と胡弓の合奏をきかしてもらいましたっけ。
でもまあ一人で行くのに温泉は適しませんねえ。」
こんな事を云いながら急に落つかない気持になって居た。
二人はこの頃の海は見つめてると目を悪くするから気をつけなければいけないとか、きっと送って行ってあげるから知らせろとか云った。
「私は貴方を弟あつかいに仕様とするし貴方は私を妹あつかいにする気で居る」
「行くとはっきりきめもしないのにそんな事を云われればどうでも行かなければならなくなってしまう。」
「行くとなれば『さき』一人残して行かなければならないから何となし不安心な気がする、
火事でも出来されちゃあ事だ。」
「お京さんにたのんでちょくちょく来て見てもらえばいいけれ共。」
「でもまあ、体にはかえられないから二十日ほど行って来ましょう、
ほんとうに。」
千世子はポツポツとまとまりのない事を話した。
「いくら暢気だからって、
これでも御主人様なんですからねえ、
女中の事も考えなけりゃあ。」
そんな事も云った。
出る時にはきっと知らせて呉れと繰返し繰返し云って二人が帰って行ったあと千世子は行くか行くまいかとしばらくの間迷った様になった。
又青い顔をして臭剥を飲むよりは短っかい間でも行って達者で居た方がいいしまたそんなにいやだと思って居る事ではないけれ共斯うやったままちょくちょく来る二人のためにつぶす時間をまとめても十分な時が作られる。
こんなにあんけらかんとしても居られないんだからもう少し精力を増さなければいけないからとも思った。
夕飯の時半分じょうだんの様に、
「今月中にねえ、
私は小田原へ行って来ようと思って居るんだよ。
お前にお気の毒だけど、せいぜい二十日位だから、辛棒して呉れるねえ。」
なんかと云った。
(二)[#「(二)」は縦中横]
まだ若い女をたった一人留守番にして自分一人旅に出ると云う事は千世子には何となし仕にくい事だった。女の淋しさも思い、また、自分の持って居るあらいざらいのものを見張って居てもらうにはあんまりかよわいものの様でもありして千世子は出しぶって居た。林町の家から婆やでも来てもらえばいいとも思ったけれ共、それでなくってさえ手少なでせわしくて居る内をたのむのはあんまり心ない事だとも思って居たので余計のびのびになってしまった。
そうして居るうちにまた「さき」の縁談が持ちあがって当分は足止めを喰ってしまった。
始め、さきの父親の所から太い太い字で書いた手紙をよこした。
間が悪いほど、自分の娘の世話になって居る礼を書き連ねてから、縁が有って斯々の処へきめたから近々参上してくわしい事は申しあげ改めてお暇をいただきたいと云ってよこした。
その手紙が来てから六日ほどして父親はほんとうに千世子の家へ来た。
しょぼしょぼの眼をしげく眼ばたきしながら丁寧な口調でゴトゴトと話した。
「家の娘も貴方様、先に二度ほど婿を取ってやりましたがはあ無縁でない、
皆落つきませんだ。」
こんな事を云って一度目のは「さき」が十八の時来たんだそうだけれ共その時は女の方で虫が好かないで離縁して仕舞い二十二の時二度目のが来たけれ共石女だと云って自分から出て行ったんだと云った。
それからその男にひどい目に会わされたんで婿なんか取るもんじゃあないとあきらめた様にして今まで一人身で居たけれ共もう年が年だから今度の話は先が承知するとすぐきめてしまったんだと不幸な娘を持った年寄の父親はうるんだ声で千世子に話してきかせた。
休職の海軍軍人で小金の有る内福な事を繰返し繰返し云ってから、
「一刻も早くはあ孫の顔が見たいばっかりで、」
と涙をこぼして居た。
千世子は耳遠い年寄にわかる様に一言一言力を入れて自分の暮しの様子なんか話して、
「何より御目出度い事だから今すぐにも帰してあげたいんですがねえ、
斯うやって私一人で居るんだから女中無しじゃあ一時だって困るんですよ、
だからもうかわりの女をたのんでありますからそれが来たらすぐ返しましょう、
それでいいでしょう。」
我ながら可笑しいほど主人ぶって押えつける様な調子で云った。
年寄はまた三度目を繰返してなるたけ早くまとめたいとばっかり云った。
千世子は、
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返してやらないって云うんじゃあなし、一度云えばわかって居るのに。
[#ここで字下げ終わり]
にかび顔をして土産に持って来た柿羊羹のヘトヘトになった水引をだまってひっぱって居た。
自分の云いたい事をあきるまで云って仕舞うと父親は娘に云いたい事があると云って女中部屋に行ってしまった。
千世子は元の場所から動こうともしないで柿羊羹の箱を見ながら取りとめもない事を考えて居た。
斯うして女中と二人きりで暮して居る千世子にとっては女中と云うものは只単に召使と云うばっかりのものではない。
千世子は家事なんか世話をやかないから食事の事や何かはすべて女中に任して居る。
気の利く、なるたけ奉公人根性のない、気の置けないものが必用である。
さきなんかは少しは千世子の望むのに近い女である。かなり気も利くし、気が置けないと云う点はこの上なしであった。
あけっぱなしで居ながら一度二度、世帯持になっただけにかなり上手にきり廻して居た。
机を掃除する事でも、好き嫌いでももうすっかりわかって千世子が七日に一度と、かんしゃく、を起さずともいい様にまでなった。
それを手離すと云う事はかなり辛かった。
さきだってまた、夜こそ更かすが朝もそんなに早くなし、嫌いな事さえしなければ怒られもしず時々は友達みたいに打ちとけて話す事さえあるほどだからあんまりい気持はしないにきまってる。
新らしい女が来れば当分お互にさぐりっこをする、気に入らない事をする、
かんしゃくを押えて一つ一つ細っかい事を教えなければならない、
そんな事を思うと千世子はほんとうにいやになってしまった。
「帰す帰すって云ってとめておこうかしらん。」
こんな事さえ思った。
それでもまさかそんな事も出来ないから遠縁の親類へいつもの注文通り、
二十二三の少しは教育のあるみっともなくないの
をたのんでやった。
も一方先に頼んだ方のが無いと悪いと思ってであった。
父親が帰ってから、さきは、泣いた様な眼をして千世子の書斎に来て千世子の椅子のわきにぴったりと座ってしみじみとした口調で話した。
「ほんとうに私どうしようかと思って居るんでございますよ。」
「何を?」
「今度の話でございますの、
家の者はそりゃあ、乗気で居るんでございますけれど私は何だか気が向かないんでございます。」
「でもお父さんが大丈夫だって云うんならいいじゃあないか。」
「父なんて何がわかるもんでございますか、
人がよくって年中だまされて損ばっかり致して居るんでございますもの。」
「きまったって云ってたよ。」
「ええ、きめてしまったんでございますよ、
私になんか一度一寸話したっきりなんでございます、軍人なんてこわらしい様でございますわねえ。」
「同じ人間だもの、
まさか取って喰おうって云うまいし。」
「でも何が何だかわかるもんでございますか。
男なんて、
女をだます事を商売にして居るんでございますもの、
ほんとうにどうしたらいいかと思って居るんでございます。」
「行った方がいいだろうよ、
まだ十代なら何だけど――
もう五なんだろう。」
「はい。」
「そいじゃあどうしたってその方がいいよお前、
それにかなり年を取った人だって云うもの。」
「でもほんとうに一度も顔さえ見た事のない人の所へなんか参るのは安心されない気持がするんでございます。
先の『何』なんかは小さい時っからしたしくして居て私の体の弱い事なんかは百も承知の癖にあんなだったんでございますもの。」
さきは少し顔を赤めながら口を引きゆがめる様にして云った。
二度まであんまりよくない思い出を男について持って居るさきが結婚と云うものに対して持つ気持として無理はない事だろうと千世子は思った。
「そうかと云って一本立ちになって何をするって事だってないんだろう。」
「別に何って――
そんな事思った事もございませんから。」
「そうだろう、
だもの、やっぱり奥さんになってかたまった方がたしかにいいよ。
私はほんとうにそう思う。」
「そうでございますねえ、
でも貴方様なんかお嫁に行くなんて事を隣の家へお使にでも行く様にお思いでございましょうねえ。」
「まさか。」
千世子は自分が斯うやって処女《むすめ》で気楽にして居るのがどれほど無邪気に見えるんだかと思うと可笑しくなった。
「私みたいに学問もなくてお婆さんにばっかりなるものはほんとうに下らないわけでございますねえ。
又いじめられたらにげて参りますから置いて下さいませね。」
さきは、気のぬけた様に体をくずしながら千世子の着て居る着物のつぶれた褄を胸にさして居た針でつついたりして居た。
そうしてだまって居るうちに、咲はいつの間にか啜り泣きを始めて居た。
「どうしたの。」
「何だか悲しくなって参ったんでございますの、
いろんな事を考えるもんでございますから。」
千世子はだまって小ぢんまりした束髪に結って年にあわせては、くすんだ衿をかけて居る女のいたいたしく啜り泣くのを見て居た。
「泣くのなんかお止めよ、
ね。
悪いこっちゃあないんだもの、
私だってよろこんで居るんだよ。」
千世子は何と云って好いかわからなくなってこんな事を云った。
何かが心の上におっかぶさって来る様な気がして出窓から青々して勢の好い立木を見て居た。
かなり長い間しゃくり上げて居たさきは、ようやっと前髪をかきあげながら、
「もうやめましてございます。
せめて新らしい女《ひと》が馴れるまで置いていただきましょうし出来るだけ御馳走も差しあげて置きましょう。」
と云って無理無理に淋しそうに笑って自分の部屋に行った。
「又あすこで泣いてるんだろう。」
千世子はそんな事を思いながら、我ままの癖に自分の世話をよくするさきの様子を思い出した。
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二十五、三度目、見知らない男
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そんな事がいかにも痛ましい事の様に思えた。
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又いじめられたら……
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