がりもしない様子を図々しいなあとも思ったけれど心強い様にも思った。
翌日の午前、宿へ電話をかけてから千世子は二三枚の着換とその他の細っかいものを入れた。
そして女中に留守中の小使銭をわたし、来た手紙の至急なのはあっちへ送る様にそうでないのはこれに入れて置いてお呉れとわざわざ小箱を出してやったりした。衣裳戸棚やその他のいらないものへ鍵をかけてそれを帯上げの前の方へ巻きつけながら、
「出窓をあけっぱなしに仕ておいちゃあいけないよ、林町から誰か来て居る時でなけりゃあ出ない様にね。」
なんかと云った時にはつくづく女主人と云う気持を味わった。
忘れるといけないと思ってわざわざ向うの所を書いて女中部屋の柱にはりつけさせた。
「それでも失くしたらね、
林町で聞けばすぐわかるよ、
私が海へ行くと云えばきまってるんだから。」
千世子はたった一人二時の汽車で立ってしまった。
汽車の中で約束違えをして来た例の二人に葉書を書いた。
「お約束を違えましたが今日小田原へ立ちました。
二十日ほど御幸ヶ浜の養生館に居ます。
書架が開いてますから留守へも行ってやって下さい、
女中が淋しがってましょうから。」
一枚の葉書に二人の名宛を書いた。
万年筆の少し震えた字を見なおそうともしないで、東京でこの葉書をうけ取った二人の顔を想像して居た。
[#ここから1字下げ]
あんな人達に送られて仰山ぶって二十日ぼっちつい鼻の先へ出かけるものがあるもんか。
[#ここで字下げ終わり]
千世子は何となしに肩がスーッとした様であった。
誰の事も心配しずに二十日の間海を見て暮せると云う事は下らない事のゴチャゴチャつづいた後にはたまらなく慰めの多い事で自分の体がほんとうに自分のものになった気持がした。
同車の男がマッチをするのを見て千世子は火の用心をおし、と云って来るのを忘れたのを思い出してたまらなく不安心になった。
けれ共それも気のつかない内に忘れてしまって単調で有りながら注意味の深い様なカタコト、カタコトと云う音に、どこまでも運ばれて行きたい様になって居た。
底本:「宮本百合子全集 第二十八巻」新日本出版社
1981(昭和56)年11月25日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第6刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※底本では会話文が1字下げで組まれ、終わりかぎ括弧(」)が省略されています。このファイルでは、会話文の字下げ注記を省略する一方、地の文との区別のため、終わりかぎ括弧を補いました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2009年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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