蛋白石
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)欠伸《あくび》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)(一)[#「(一)」は縦中横]
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(一)[#「(一)」は縦中横]
劇場の廊下で知り合いになってからどう気が向いたものか肇はその時紹介して呉れた篤と一緒に度々千世子の処へ出掛けた。
千世子は斯うやってちょくちょく気まぐれに訪ねて来る青年に特別な注意は、はらわなかった。
けれ共相当の注意を無意識の裡に呼び起こされるほどセンチメンタルな言葉を洩して居た。
細い背の高い体と熱い様な光りの有る眼とを持って眼の上には長くて濃い□□[#「□□」に「(二字分空白)」の注記]が開いて居た。
上っ皮のかすれた様な細い声は低く平らかに赤い小さな唇からすべり出て白い小粒にそろった歯を少し見せて笑う様子は二十を越した人とは思われないほど内気らしかった。
笹原と云う姓は呼ばずに千世子はいつでも
肇さんと呼んだ。
――○――
春の暖かさが身内の血をわかして部屋にジーッとして居られないほどその日は好い天気だった。
肇は目覚めるとすぐ、
[#ここから1字下げ]
ああ、どっかへ行って見たい天気だなあ。
[#ここで字下げ終わり]
と思った。
そして第一頭へ浮び出たのは千世子の処であった。
けれ共此頃あんまり千世子の処へ行きすぎたと云う事を自分でも知って居る肇は今日も行くと云う事が何となし一つ所へばっかり引きよせられて居る様で篤を誘うのも間が悪い様な気がしたしあんまり意志が弱い様な気もした。
「行きたかったらどっかへ行けばいいさ!」
そんな事を思って肇は午前中はかなり力を入れて翻訳物をした。
二時頃になると肇はとうとう篤を誘って千世子の処へ出掛けた。
道々肇はこんな事を云った。
「今日はね、
ほんとうは行くまいと思ったんだよ。
だけどやっぱり出て来ちゃったねえ。」
「そうかい、
ほんとうにこの頃は随分ちょくちょく行くねえ、
あの人は遠慮なんかしないから邪魔だったらそう云うだろうさ!
だからいいやね。」
「だって邪魔だなんて云われるまで行くなんてあんまりじゃないか。」
二人はだまってポクポクと広い屋敷町を歩いた。
しばらくたって肇は篤の顔をのぞく様にして低い声を一層低くして云った。
「一体あの人は何故あんな風をしてるんだろう。」
「あんな風って。」
「髪だってああ云う風に結ってるしさ、
何だか違うじゃないか、
それにあの人はどんな時でも右の小指に小さいオパアルの指環をはめてるねえ。」
「すきだからだろう、
髪だって指環だって好きだからああやって居るんだろうさ、
気んなるんならきいて見るといい。」
二人は静かに歩きながら千世子の事についてぼそぼそと話し合って居た。
千世子の家の前に来た時二人は一寸たち止まった。
そしてどっかの迷い猫が眠って居る花園のわきをしのび足で通って落ついたしっとりした書斎に入った時千世子は居ないで出窓のわきに置いたテーブルの上の開かれた本が淋しそうに白く光って居た。
「どこへ行ったんだろう。」
「何!
じきに来るさ!」
家の中はひっそりして人の居るらしい様子もなかった。二人は書架をのぞいたり開いた本をひろい読みしたりした。
かなり時が立っても千世子は見えなかった。
「間が悪いものになっちゃったねえ。
まさか何ぼあの人だってあけっぱなしで他所へ出たんでもあるまいねえ。」
「だが、暢気なんだからわからないよ。」
「女だもの。
そんなするもんかねえ。」
しばらくだまって居て、
「ほんとうにどうしたんだろう。」
篤は思い出してする欠伸《あくび》の様に云った。
肇は返事をしずに何か聞いて居た。
「何だい?」
「何が聞えるの?」
二人の耳には厚い木の葉の重なりを透して千世子が歌をうたって居るのが響いて来た。
「外にやっぱり居たんだねえ。」
「ほんとうにねえ。」
肇はガラス戸をあけて体を乗り出して木の幹の間をすかして裏庭を見た。
木蓮の葉のまっ青な群の下に籐椅子を据えて「ひざ」の上に本をふせたまんま千世子は何か柔い節の小唄めいたものを歌って居た。
「見えるの?」
篤は重なって肇の頭の上から千世子の様子を見た。
「いつもより奇麗に見えるねえ。」
「ああ。」
「何故なんだろう。」
「女の人なんか日光《ひ》の差し工合だって奇麗にもきたなくも見えるもんだよ。」
「随分若く見える。」
千世子は茶っぽい銘仙のぴったり体についた着物を着て白っぽい帯が胸と胴の境を手際よく区切って居る。きつくしめられた帯の上は柔かそうにふくれてズーッとのばして膝の上で組み合わせた手がうす赤い輪廓に色取られて小
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