は、異様に印象に遺った。
私には、夕方見かけるロシア婦人とこの男が全然無関係とは思えなかった。彼もロシア人とはっきり感じた。妙に深く、暗く、際限のないような彼の雰囲気が、ロシアのものでなくて何だろう。
私は、あの婦人帽を見ている時持つと同じような或る感じを受けた。漠然とした、言葉にうつし難い生活の辛さ、厭さに同感する心持だ。
半月も経たない夜、私はまた同じ処を通った。香水の商人はいなかった。その代り、感情的な一つの情景を目撃した。
風が吹き、物影がはためくので一層沈んで見える山崎の大飾窓の処に人だかりがある。私は、
「何でしょう、病人?」
と怪しみながら通りがかりに振向いて見た。思いがけず人の間から、見覚えのある紅い婦人帽が覗いている。私は立ち止った。よく見ると、その帽子は低くかがみ込んで、もう一人別な女と一緒に、飾窓の地面とすれすれの縁に腰かけて顔をかくしている少女に、頻りに何か云っているのだ。
言葉は聞えない。けれども、彼女の後姿には刻々多くなる見物に対する意識が明に現れていた。少女の肩に手をかけ、一分も早くその場面を切りあげたそうに、情けなそうに何か云っている。少女は十一二で際立って美しい素直な金髪を持っていた。紺サージの水兵帽からこぼれたおかっぱが、優美に、白く滑らかな頬にかかっている。男の子のようにさっぱりした服の体を二つに折り、膝に肱をついた両手で顔をかくしている。彼女は、正直な乱暴さで、ぐいと、左手の甲で眼を拭いた。二人の大人が云うことに耳を貸さず、むっとした憤りを示して動かない。頑固な様子の裡に、私は一種気持よい強さと、清らかさとを感じた。どういうことで少女が泣き出したのか。まるで前後の事情を知らないのに、私は彼女が全く理由なしに拗ねているのではないこと、彼女は本気で、悲しさより何かの苦しさで泣いていることを感じたのであった。
私は、瞬間、露骨に好奇心を表して見物している者達を手厳しく、
「さあ、どいて下さい。見世物ではない」
と、追い払ってやりたいように感じた。
きっと、少女は母と、母の友達である見なれた婦人と、始めて物売りに出て来たに相違いない。家で――恐らくはどこかのひどい下宿屋か、共同生活の一隅で――その話が出た時、少女は、一寸面白がり、行って見てもわるくはない位に思ったのだろう。ところが来て見ると、正当に育った子供の本能的な愧しさや気位や人みしりが、俄に彼女に堪らない思いをさせ始めたとしか思われない。母達が、折角来たのだからと勧めているうちに、滅入って泣出したのか。それとも――。私は歩き出し、ひどく心を捕えた少女のために一人の群集を減しながら考えた。どこかの馬鹿者が、彼女の手から、いずれ見事ではない売り物を買ってやる代りに、何か無礼なことでも云ったか、仕たか仕たのだろうか。それで彼女は泣いているのではなかろうか。
子供の時に感じる苦痛は空から地面まで一杯になって押かぶさるようだ。大人の常識が不合理ときめる理由や感情が、子供にとって充分の理由であり、真実であり、而も大人を納得させるだけの語彙を欠いているばかりに、私共、総ての子供はどんなに苦しい思いをして来たことだ!
二三日その少女のことが忘られなかった。次に、夜、出かけた時、私は電車を降りるとから、山崎の角に目をつけた。彼女はどうしたろう? いるだろうか、いないだろうか。鋪道を彼方に越すと私は一目で、あの金髪と紺の水兵帽とを認めた。今夜、彼女は泣いてはいない。もう少し先刻来たものと見え、先夜の連れと、一つの籠をとり巻いていた。紅色帽の女が、何か云いながら、小さい見栄えのしない花束を二つずつ少女の両手に持たせた。そして、肩を押すようにして人通りの方に行かせた。私は、興味を持って、少女を見守った。僅な三四日のうちに、彼女はもう上手な花売りになったのだろうか。
雑踏する散歩者の群に入ると、彼女は、まるで自信のない、躊躇に満ちた足どりで歩き始めた。両手には、持たせられた花を二束ずつ持ちあげたまま、むきな、真面目極る顔を心持うな垂れて、のろのろ歩く。数人が、けげんそうに振向いて眺めた。七八歩行くと、彼女は何か考え沈んだ風で、群集から脱れ、とある化粧品店の飾窓の方に行った。彼女の両手は下り、四束の花――彼女にとって大切な筈の商品は――気もなく指先きにやっと掴まれている。
私は、彼女が、どうやって人を呼びとめてよいのかも見当がつかないでいることを知った。母やつれの女が、こう云えとは教えただろう。が、彼女の唇から最初の一声がどうしても出ないのだ。もういやというのは余り生活の苦しさや、彼女の助力の必要を理解した。だから彼女は泣いたり、愚図つくのを恥じている。然し、見も知らぬ通行人を、止めようとすると、云い難い外国語が、彼女の細い真直な少女の喉元を
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