女の繊《ほっ》そりした指が、一束のグラフィックを持っていること、あの帽子が一揺れする毎に、彼女の唇には如何程強いた、嗄がれた微笑が掠めるかということ等、こちらに遠のいていても私によく解った。或る日、偶然彼女がつい近くの若い会社員らしい男にそのグラフィックを買ってくれと、覚つかない日本語で云っている顔を見た。私は彼女の微笑や無意識に表している嬌態から、何ともいえず心の滅入る感銘を受けた。今まで、愉快で、漠然とした暖さに伸び拡っていた感情が、俄にきゅっと私の胸の中で搾り縮められるような何かが、彼女の体のこなし、売りもの総てにつきまとっていたのだ。
 私は何故か、彼女が自分の商売品である画報に一向自信を持っていないのを感じた。彼女自身、それが非常に美しいものでも、興味を唆るものでないのもはっきり知っている。然し、自分は買って欲しい。いらないのは判っているのだが、という苦しげな、臆病なものを冊子を差し出す腕の動作に語っている。
 その時、私は一人の職人が鷲掴みにして腹がけの丼から反古包みの銭を出し、憤ったような顔つきで冊子の一つを買ったのを見た。もう一人、これはやっと十六ばかりのやや田舎ッぽい小間使い風の娘が、思いがけず、恐らく彼女の目から見ると奇麗な西洋人に勧められ、人中ではあり断り切れず真赤になり、まごついて画報と引かえに金を払うのを見た。買う方も、売る方も極り悪く、辛そうに見えた。僅か一二分の交渉であるのに、売りてと買いてを、人がたかってさも事件のように取巻いた。
 私は、その人だかりの外を廻って車道を越した。その時から、一つ場所に漂っている背高い婦人帽の頂を認めると、私は、鋪道を彼方側に越すことにした。
 こちらまで、妙にばつのわるい思いをするように、ばつのわるいすすめようを私はされたくなかった。断れきれず(多分私も)赧くなり、欲しくないグラフィックを買わされるのも快くないに違いない。よけて通りながら、心の底で私は彼女について無頓着にはなれなかった。いつも、何処か翳った心配めいた心持で、根気よく通行人を止めてはその前で傾く婦人帽の運動を見守った。彼女はその時、片言に出来るだけ愛嬌をこめて、
「この本いりません? 二十銭…… どうぞ」
と云っているのだ。
 電車に乗りながら私は屡々考えた。
「一体どの位売れるものかな。皆で二十冊位しか持ってもいないようだが――二十冊にしたところで二二ガ[#「ガ」は小書き]四、四円。一月で百二十円! ふうむ」

 三月の或る晩、私は従妹や弟と矢張り尾張町の交叉点で電車を降りた。
 暫くどっちに行こうと相談した結果、先に、山崎の側を――そちらに夜店が出ていたから――京橋詰まで行き、戻りに新橋まで帰ることになった。
 私共は、快活な散歩者らしい様子で気軽に十字路を横切った。そして、鋪道に溢れるような人出に紛れ込もうとした時、私はふと、山崎の陰鬱に光る大飾窓の向い合った処に、一人日本人でない露店商人がいるのに目をつけた。
 そこは私が見てさえ、商売上得な位置とは思えなかった。車道を踰《こ》えて鋪道にかかったばかりの処だから、頻繁な交通機関をすりぬけるに幾分緊張した交通人達は、大抵一二間ゆとりない惰力的な早足で通り過た。彼等は、勿論薄暗い左手の街路樹の下に、灯もなければ物音も立てず、しんと侘しげな小露店があることさえ殆ど心付かない。蛾のように、明るさに牽きつけられた者は、前方にいそぐ。どういう拍子か私の目を止めた外国人の貧しい露店は、そんな損な処にいる上、実に小さな、飾りけないものであった。
 店と云えば、僅か二尺に三尺位の長方形の台がある許りだ。白布がいやに折目正しく、きっぱりかけてある。その上に、十二三箇小さな、黄色い液体の入った硝子瓶がちらばら置かれている。白布の前から一枚ビラが下っていた。
「純良香水。一瓶三十五銭」
 台の後に男が立っているのだが、赧っぽい髪と、顎骨の張った厳しい蒼白な顔つきとで、到底、買いてを待つ商人とは思えなかった。兵隊であったかと感じる程、身じろぎもせず、げんなりした風もなく突立っている。見て、寒い恐怖に近いものが感じられた。男は、峻しい冷静なその台の番人で、香水と称す瓶のなかみは、可愛い好い香など決して仕ない色つけ水でありそうな気がする。万一、香水に心は引かれても、後に立ってこちらを見ている男の風貌を眺めると、思わず手を引こめそうでさえある。
 彼のすぐ隣には、けばけばした赤い模様布をどっさり並べ下げた更紗商人がいた。その先には、台を叩き叩き、大声で人を集めているバナナ屋がいた。堆い、黄色な果物が目立った。右側の店舗から漲り出す強い光線、ぶらぶらと露店の上に揺れ、様々な形と色彩の商品を照している電燈の笠。賑やかで、ごたついた東洋的な夜の光景の中で、この外国人の素気ない小店
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