祖父の書斎
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)牛御前《うしのごぜん》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年十二月〕
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 向島の堤をおりた黒い門の家に母方の祖母が棲んでいて、小さい頃泊りに行くと、先ず第一に御仏壇にお辞儀をさせられた。それから百花園へ行ったり牛御前《うしのごぜん》へ行ったりするのだが、時には祖母が、気をつけるんだよ、段々をよく見て、と云って二階へつれてあがった。いつも使っていない二階は不思議な一種の乾いた匂いが漂っていて、八畳の明るい座敷の方から隣の小部屋の一方には紫檀の本箱がつまっていて、艷よく光っていた。森閑としたなかでそうやって光っている本箱はやはりこわさを湛えていて、おじいさまの御本だよ、と云われても凝っと祖母の腰によりそって遠くから見るだけだった。この祖父の写真が一枚あったが、白髯で小柄なのに、子供の心にしたしめる表情は乏しかった。この向島からのかえりには浅草の仲店の絵草紙やで、一冊五銭ぐらいのお伽噺の本を買ってもらうのがきまりであった。大抵巖谷小波の本であった。祖父の蔵書は後でどこかに寄附されたが、あのぎっしり並んで光っていた本箱の行方については全く知らない。
 やがて『少女世界』が私の本という新鮮な魅力をもって一冊一冊とためられ、冬の縁側で日向ぼっこをしながらそれをあっちへ積みかえこっちへ積みかえしていた心持が思い出される。もっともこの時分には、もううちの本棚への木戸御免で、その又本棚というのが考えれば途方もないものだった。居間のとなりに長四畳があってそこに父の大きいデスクが置いてある。背後が襖のない棚になっていて、その上の方に『新小説』『文芸倶楽部』『女鑑』『女学雑誌』というような雑誌が新古とりまぜ一杯積み重ねてあって、他の一方には『八犬伝』『弓張月』『平家物語』などの帝国文庫本に浪六の小説、玄斎の小説などがのっていた。その棚の下のどこかに鏡台がおいてあったのを思えばそこは主に母の本棚だったのだろうか。
 女学校の二年ぐらいから、玄関わきの小部屋を自分の部屋にして、こわれかかったような本棚をさがし出して来て並べ、その本棚には『当世書生気質』ののっている赤い表紙の厚い何かの合本や『水沫集』も長四畳のごたごたの中からもって来ておいた。
 父方の
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