界史的に、大局的に判断することが可能なような知的な自由というものを知識人は与えられていない。誰でも読む新聞、誰でも聴くラジオと軍歌、演説が知識人の知識の糧であり得るにすぎない。今日ほど、知識人が客観的に大衆なみにおかれていることはなかったと思う。大衆の不満がありとすれば、それは本質的に知識人の不満である。おしかぶせの全体主義への心臓からの抗議がここから生じると思う。
 情勢との関係によって様々な形をとりながらも、大衆の進歩的な部分が大衆としての有形、無形の発言の力であると見るのが誤りでない以上、大衆の新たな一部となって来ている知識人的要素が、やはり大衆の声をもつ筈である。ところが、非常に微妙な時代的な錯綜がここに加っている。所謂良心的知識人的要素が、経済的文化的現実に即して観察すれば全く大衆の一員でありながら、知識人的意識とでもいうようなものの残像で観念の上では自分たちのインテリゲンツィア性を自意識しながら、実際の結果としては大衆のおくれた底辺に順応しているような現象がある。良心的、進歩的、そして又、左翼的な理論を持っているような人々の間に、この現象は現代日本の歴史性として現れている。
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