得ないと主張している。亀井氏は、新しく文化が復興されるためには奴隷なきネロがいる、といっている。
 文学におけるロマンチシズムは、初め十九世紀の或る進歩性として現れ、つづいて現実逃避として自身を色彩づけ、現在はドイツにおいて明らかなようにファシズムの虹として役割を果しつつある。
 亀井氏は嘗て左翼の文学に近くあったことがある。昨今の氏の論を見ると、亀井氏の科学的理解なるものが自身の生きかたとの関係で、どんなに所謂説明派合則主義にとどまったものであったかがわかる。氏は文学作品をこめての現実社会の諸相を、より歴史の真実に沿うて理解し展望し得るために、人類が努力を蓄積して来た一つの到達点としての科学性を体験し得なかった。そのために、より豊富な摂取的な人間性の拡大のための欲求としての芸術体験と見ることが出来ず、芸術的体験までを信仰に結びつけ、却って、自己放棄の方向へ主張を向けているのである。
 大衆とその一部としての知識人が啓こうとする人間性の前途は、人間生活の最も含蓄ある意味での科学性の花咲く将来でもあるのである。[#地付き]〔一九三七年十月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本
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