ければならない、そこに新たな文化の生育の可能とヒューマニズムの芽とがかくされていると主張されるのである。
 誰にでも明らかなように、これらの主張には互に共通ないくつかの根本的な誤りが含まれている。その第一は、『文学界』の提案も谷川氏の思索も、どちらも民衆の今日の文化水準の低さ、貧しさというものを固定的にそれなりに肯定して、結果としては知識人をそれに追随させようとしていることである。民衆は今日の文化的貧困を自覚するとしないとにかかわらず、自ら希望してそのような低さ、貧しさを求め、そこに止っているのではない。そのように在らしめている社会的な事情というものがある。もし、文化の問題を云々する人々が、文化の水準の質的、量的な貧弱さと豊富さ、高さと低さとを歴史の光に照らして客観的に比較評価する力を失って、現象的に目前多数者の持つレベルはここであるから、と世界的低賃銀で生きていなければならない日本の民衆の、それに応じて高くあろう筈のない文化水準に適応してしまって、そこに引止める役割をもったとしたら、彼等の任務は果して進歩的であるといえるだろうか。
 民衆の文化水準というものも、現実には決しておおざっ
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