本年の初頭に、横光利一氏が「厨房日記」という小説を発表した。その中で奇妙な民族の優越性の解釈と知性の放棄とを主張し、流石《さすが》の彼の追随者たちをも愕《おどろ》かした。
 その後数ヵ月を経て、森山啓氏の「収獲以前」という小説が発表されたのであったが、この小説はその作品としての成功不成功にかかわらず、知識人と民衆との相互関係の理解における一つの反映として、今日尚見かえるべきものを含んでいた。「収獲以前」は、一般の読者に作者と殆んど同一人と想像させる左翼的な主人公をめぐる家族関係を描いた小説である。作者は、いうところの世界観やものの見かたにとらわれず素直に素直にと志してこれらの人的交渉を描いたことを自らの新しい立場として語っていた。
 左翼的詩人、評論家としての作者の境遇は、語られているところに従って推察すれば勤労者的な家族の中における或は唯一人の知識人、意識人である。運動の波がひいたとき、この作者は自分のまわりにある家の中の人々の庶民的な顔を長め、素朴な、自然発生的な生きかたを眺め、それを庶民的な、民衆的な素直[#「素直」に傍点]さとして胸をうごかされ、自分自身も素直になって[#「素直になって」に傍点]、自分の生きかたを肯定している小説である。この場合にあらわれている主人公の知識人、意識人としての自分の本質を放棄した民衆性への追随と、民衆性[#「民衆性」に傍点]、庶民性[#「庶民性」に傍点]、その素直さ[#「素直さ」に傍点]などというものの解釈にある感傷的な甘さ、感傷的な観念性が、時代的なものとして関心をひくのである。
 今日ある年齢に達している知識人の何割かは親の借金で教育を受けている。さもなければ長男だからという理由で、「収獲以前」の主人公のように、将来の負担者として投資されて、家じゅうで只一人の大学出として教育され、知識人となっている。勤労家庭から長男が立身して、「皆を楽にさせた」時代はとうに過ぎているから、そのような経済的根拠に立って知識人となった青年たちの或るものが、「収獲以前」の主人公のように、自分の一身にそんなにもまざまざと反射している社会矛盾を自覚して、思想的に傾くのも自然である。
 多難な運動は、バラの道によって人類を解放させないのである。前衛としての知識人の負う艱苦、犠牲は運動の退潮期には猛烈であるから、一般的敗北の跡の検討ということは、冷静に、確乎性をもって歴史的な眼から行われ難い。船が難破しかかったとき、最後にその船を転覆させて自分たちの命もすてさせてしまうのは、舷の傾いた方へ我を失って塊りすがりつく未訓練な乗客の重量である。その通りのことが生じて来る。批判は発展的にされず、対比的にされる。ああではない、だからこう、と、一方へぐっと傾く。これまで、民衆を指導するなどと考えていたのは烏滸《おこ》の沙汰である。先ず自分から民衆の一人となって、その日常の内へ入って、しかる後云々ということが、違った形での民衆性へのエキゾチシズム、感傷、自分の意識人としての本質の放棄としてあらわれて来るのである。
「収獲以前」は、上に述べたような作者の知識人としての内的推移の跡を語っている。そして、この特色的な生活態度における方向の放棄の傾向は、最近舟橋聖一氏の「新胎」という小説の結尾にもあらわれている。「新胎」では、この作者によって一二年前提唱された能動精神、行動主義の今日の姿として、実力養成を名とする現実への妥協、一般的父性の歓喜というようなものが主流としてあらわれて来ているのである。
 青野季吉氏が、近頃『文学界』を中心としていわれている政治主義、文学主義の問題にふれて最近書かれている論文の内で、「民衆の真実」から出発するという表現で、自身の拠りどころを語ろうとしていることも様々の感想を刺戟することである。山本有三氏に「真実一路」という小説がある。これの映画は多くの女を泣かせた。そして検閲料免除になった。だが、あの小説を読んだ真面目な読者は、作者が告げようとしている「真実」の内容が具体的にはっきりしていないことに、苦痛を感じたのであった。青野氏が抒情的な筆致で「民衆の真実」をとりあげた場合、一般化していわれる民衆という言葉は、一般化して云われる真実とひとしくほんとに抽象名詞であるという感がふかい。民衆の真実は何であろうかと思わずにはいられないのが活きた今日の人情なのである。
 大衆の中の進歩的要素と知識人が、懺悔的な悔恨的な感傷で大衆を一般化して考え、それに対し勝な昨今の弱点を餌として、三木清氏のような全体的の哲学が闊歩するのであるし、亀井貫一郎氏の速記録改竄問題をひきおこすのである。
 ヒューマニズムは、無方向な人間性全体主義の別名ではない。今日、ヒューマニズムがトルストイの人道主義でも、ニイチェの達人主義でもあり得
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