ないことは自明である。きょうの私たちの生きる社会の現実の裡にあっては、悪質な反動として民衆の一般化・全体化観念に対して、民衆そのものの内的要因としての反動性と進歩性との相異をとらえ、同時に知識人の間に急激に生じている同様の分化の本質を理解し、その二つのものの結合、離反の作用に対して、世界史的見地から能うかぎり進歩的に処してゆくことが新たなヒューマニズムの内容をきめると思うのである。
 少数と多数ということも、今日の感情には微妙に反映している。たとい少数であり、微弱であっても、その健全性によって評価されなければならない事象は、正当に評価して、波動をひろげつたえて行く意志が、今日のヒューマニズムにおいて求められている。
 文学の面で、近頃亀井勝一郎氏、小林秀雄氏共々、文学評価の科学性というものに反対を表明している。従来、科学的といった評価は、単に文学作品の生れて来た社会の歴史的階級的環境、条件を説明するにとどまっていた。それでは芸術は分らない。芸術的価値というものは体験されなければならないことであり、体験は宗教的な要素と結びつき、信仰体験とならなければ、芸術によって人間が変貌することはあり得ないと主張している。亀井氏は、新しく文化が復興されるためには奴隷なきネロがいる、といっている。
 文学におけるロマンチシズムは、初め十九世紀の或る進歩性として現れ、つづいて現実逃避として自身を色彩づけ、現在はドイツにおいて明らかなようにファシズムの虹として役割を果しつつある。
 亀井氏は嘗て左翼の文学に近くあったことがある。昨今の氏の論を見ると、亀井氏の科学的理解なるものが自身の生きかたとの関係で、どんなに所謂説明派合則主義にとどまったものであったかがわかる。氏は文学作品をこめての現実社会の諸相を、より歴史の真実に沿うて理解し展望し得るために、人類が努力を蓄積して来た一つの到達点としての科学性を体験し得なかった。そのために、より豊富な摂取的な人間性の拡大のための欲求としての芸術体験と見ることが出来ず、芸術的体験までを信仰に結びつけ、却って、自己放棄の方向へ主張を向けているのである。
 大衆とその一部としての知識人が啓こうとする人間性の前途は、人間生活の最も含蓄ある意味での科学性の花咲く将来でもあるのである。[#地付き]〔一九三七年十月〕



底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第七巻」河出書房
   1951(昭和26)年7月発行
初出:「自由」
   1937(昭和12)年10月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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