界史的に、大局的に判断することが可能なような知的な自由というものを知識人は与えられていない。誰でも読む新聞、誰でも聴くラジオと軍歌、演説が知識人の知識の糧であり得るにすぎない。今日ほど、知識人が客観的に大衆なみにおかれていることはなかったと思う。大衆の不満がありとすれば、それは本質的に知識人の不満である。おしかぶせの全体主義への心臓からの抗議がここから生じると思う。
 情勢との関係によって様々な形をとりながらも、大衆の進歩的な部分が大衆としての有形、無形の発言の力であると見るのが誤りでない以上、大衆の新たな一部となって来ている知識人的要素が、やはり大衆の声をもつ筈である。ところが、非常に微妙な時代的な錯綜がここに加っている。所謂良心的知識人的要素が、経済的文化的現実に即して観察すれば全く大衆の一員でありながら、知識人的意識とでもいうようなものの残像で観念の上では自分たちのインテリゲンツィア性を自意識しながら、実際の結果としては大衆のおくれた底辺に順応しているような現象がある。良心的、進歩的、そして又、左翼的な理論を持っているような人々の間に、この現象は現代日本の歴史性として現れている。日本の解放運動は恐らく世界のほかの国にも例のない独特の波瀾を経験するものと思われるが、万人の心に生々しい最近の敗北の結果、日本の労働者階級の歴史の若さから生じた所謂観念的[#「観念的」に傍点]な傾向への反省が一種の感傷さえ伴って、今日では大衆の日常性、大衆の現実に即すという方向へ、どっと傾いている。
 この傾向の中には、もとより健全さが在る。なみなみならぬ犠牲をはらって到達しつつある歴史の成育の過程として高く評価されるべきものがある。そこに輝やかしきものの源泉があることは当然であるが、それが泉であればあるほど、泉の周囲に生える毒草や飛びこむ害虫がとりのぞかれなければならないのも当然であるまいか。
 大衆、民衆というものを、感傷的に一般化して気分的にその現実、日常性との結合という風に考えることには、幾多の危険がある。
 昨年ごろからヒューマニズムの声があり、遅々として発展の困難を示しているが、日本におけるこのヒューマニズムの理解、把握の内部には、さきに述べたような要因と並んで封建時代の文学を支配していた人情、自己放棄の陶酔感などの尾が脈々と絡みついていて、一層混乱に陥っている有様である。
前へ 次へ
全8ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング