のが現実のありようなのである。
 大衆課税、物価騰貴が大衆の双肩にかかっている。大衆の文化を圧する方策が、大衆の現実という名において大衆の頭上にふりかかって来ている。従って、大衆にわかる小説を書かなければならないという一見自明な『文学界』などの提案も、嘗てプロレタリア文学運動が、文学の大衆性と通俗性との相違を明らかにしようとして、作品行動の上でも努力した、その正当な努力の方向に沿うて再吟味することなしには、こういう外面の大衆への関心の底に横《よこた》わっている顕著な反動の本質が、指摘されない危険があるのである。

 ところで、ここに私たちの注意をひき且つ周密な自省を求めている一つのことがある。それは、文化面をもひきくるめてのこういう誤った全体主義の見かたが、どうして今日大衆の進歩的な部分、知識人の進歩的な部分によって、それが当然受けるべきだけ十分、論点をはっきりさせた反撃をうけずにいるかということである。その心理的な諸原因について、もっと鋭い各自の関心が向けられて、しかるべきではなかろうか。
 ヨーロッパ大戦後の中流層の没落は世界的規模において生じた。インテリゲンツィアの勤労者階級化の傾向はこれに応じて必然に生じたのであり、更に一九二九年の恐慌以後今日に至る一般の不況は、益々深刻にこの社会的現象を展開させている。十年前に労働予備軍に加った人々の生活が低下しつつある傍ら、新しい青年層の無産者化が大量に行われつつある。それ故詳しく具体的に見れば、今日の大衆の実質の中には、画期的な多量さで知識人要素が内包されて来ているわけである。大衆の質も量も、この十年間に大いに変化して来ていることは否めない事実なのである。
 日本に解放運動の思想が入って来た時分と今日とでは、知識人の社会的足場はずーっと動いて来ている。左翼運動の波が表面に見えた頃、進歩的な知識人の生活は経済的にも文化的にも比較すれば今日より高いところにあったし、文化的知的自由の範囲も広かった。
 現在では、そういう指導的な方向が表面から隠されてしまわなければならない程社会の事情一般が切迫して来ており、知識人は全く大衆の蒙っていると同一の重荷で経済的にも文化的にも生活を切下げられている。手近な例として、今日の複雑な時局について、知識人は、どんな広い客観的視野、批判の自由を持っているであろう。こんにちの歴史の局面について世
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