前進のために
――決議によせて――
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
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このたび、常任中央委員会によって発表された日和見主義との闘争に関する決議は、プロレタリア文学運動が今日到達したレーニン的立場に立っての分析の周密さ、きわめて率直な自己批判の態度などにおいて、非常にすぐれたものである。この決議の精神は、作家同盟の全活動を今後ますます正しく活溌化するばかりでなく、おそらくは他の文化団体及びその指導部にとっても何らかの意味で示唆するとこがあるであろう。
私は満腔の信頼とよろこびとをもってこの決議に服する。そして、自己批判によって一層高められたレーニン的党派性の理解に立って、この決議の実践、大衆化のために努力し、同時に、わが陣営内の最も害悪ある敵、日和見主義と、いよいよ正しく、譲歩するところなく闘争することを、自身の課題とするものである。
全同盟員によって支持され、実践されるであろうこの日和見主義との闘争に関する決議の大衆化に当って、私は同志小林多喜二の業績を、新たな尊敬とともに思い起さずにはおれぬ。
同志小林は、プロレタリア文学の一部に現れた日和見主義に対しては、率先してそれとの闘争に立ち向った。彼は連続的に発表された諸論策において、日和見主義の社会的階級的根源をあばき、作品について具体的に指摘し、日和見主義との闘争がいかに政治的重要性をもつものであるかということについて、鋭く大衆の注意を喚起した。同志小林が卓抜なボルシェヴィク作家である上に、優秀な理論家、指導者としての最近の発展は主として日和見主義との闘争に関する諸論文の中にうかがわれたのである。このたびの決議のレーニン的基礎づけ、思想的基礎づけの半ばは、同志小林が全力を傾けて実践した日和見主義との仮借なき闘争の成果によって行われたと云っても過言ではないであろう。
同志小林の不滅の精神は、今日われわれが正しい決議を発表し得るに至った全過程を生々と貫き、更に決議そのもののうちに燦然と輝やいているのである。
万一、決議が、同志小林の英雄的殉難を機とし、謂わばそれによって心を入れかえた常任中央委員会によって懺悔的に発表されたものであるかのように考えられるとしたら、それは事実を歪めるものであるし、また同志小林の業績をかえってその歴史的評価においてちぢめる結果となるであろう。決議は根本において、発表の時機によって、その価値を左右されない確乎たる党派性と科学的究明との上に立ってなされたものである。同志小林の功績は、実にプロレタリア文学運動におけるその如き党派性、その如き科学性の確立のために、決議の作成へまで発展的にしかも飽くまで厳密にわれわれを批判し、鼓舞激励したところにこそあるのである。
貴司は『改造』四月号の「人及び作家としての小林多喜二」という感想文の中で、同志小林は作家としても理論家としても未完成であったが、その英雄的死によって未完成を完成したという意味のことを書いている。その文中では完成、未完成、あるいは性格というようなものが固定的に扱われていた。同志小林が敵に虐殺されたことによって、自身の未完成を揚棄し得たかのように考えるとすれば、それは階級的前衛に加えられる敵の悪虐の真相を、大衆の面前から押しやり、復讐の目標をそらすものである。
われわれは先ず同志小林の業績を正しく階級的に評価することによって、決議の真面目な責任ある具体化の一歩としなければならないと思う。
日和見主義との妥協なき闘争の階級的意義を理解することなしに、同志小林の不撓な闘争の真価を理解することは不可能である。日和見主義を克服することなしには同志小林の復讐を誓うということさえ実践的にはあり得ないのである。
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この後につづく原稿は『プロレタリア文学』三月号のために書かれたものであった。
一月号所載の中條の論文「一連の非プロレタリア的作品」に対しては多くの同志たちの批判が加えられ、又筆者自身自己批判するところもあった。しかし、論文に対する批判そのものに又種々討論さるべき点があったので、筆者の自己批判並び批判の再吟味として「前進のために」が執筆されたのであった。
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後、常任中央委員会によって確乎周密な「右翼的偏向に対する決議」が発表された。
三月号『プロレタリア文学』が敵に奪われたため「前進のために」は時間的に前後した観があるが、内容は今日においても十分積極的意義を持つと思うので、「決議によせて」と合せて発表することにしたわけである。(『プロレタリア文学』編集部註)
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[#ここで字下げ終わり]
『プロレタリア文学』一月号所載中條の論文「一連の非プロレタリア的作品」に対して、同志藤森は二月号同誌に「批判の批判」二月五日『東京朝日新聞』に文芸時評「我等の運動」を、同志林は『改造』二月号の文芸時評において、同志神近市子は『日日新聞』月評において、それぞれ反駁、批判を発表した。
私は、これらの反駁、批判を注意ぶかく読んで、自身の論文について多くのことを学んだと同時に、それらの反駁、批判それぞれが又そのものとして、われわれプロレタリア文学運動をレーニン的段階へと押しすすめて行こうと努力する者すべてにとって、種々見落すことのできぬ問題をもっていることを発見した。この一文は、それら両面からの問題を明らかにするために書かれたものである。
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「一連の非プロレタリア的作品」に対して与えられた諸同志の批判を見ると、そこに一貫して云われている幾つかの共通なことがある。その一つは筆者中條が「無反省的思いあがり」で「ABC的観念的批評をやりながら」「おそろしくいい気持で」「傲慢な罵倒」を「小ブル的自己満足」をもってしている。(同志藤森「批判の批判」)又、中條という「少し太りすぎて眼鏡などかけた雌蛙」「プロレタリア文学における」「見習い女中にすぎない」者が「藤森さんやきみ(同志須井一のこと・筆者)やぼくの小説を材料に、千切り大根の切り方の練習でもするつもりらしい。」「中條百合子・小林多喜二――せまい文学理解と、あやまった政治家的うぬぼれによって、われ一人プロレタリア作家という顔をし、仲間のすべての労作をめちゃめちゃにきりきざんでそのあとに無をのこす日本プロレタリア文学の発展に最悪の影響をあたえてる連中」(同志林『改造』文芸時評)であること「自分の陣営内の同志の過失(?)を訂そうとして、政治上の敵に対すると同じ悪罵と論難とを加えること」「自分の仲間を一人一人敵の陣営に(例えば結果としてでも)つき出そうとするような言動は、われわれは例えばどんな動機からでも避けなくてはならない」(同志神近「二月の文芸作品」)
他の一つは、どの批判にも繰返されているところの、作家同盟が同伴者作家をも含む広汎な大衆組織である、同伴者作家の階級的価値を認むべきであり、中條は「同盟拡大強化の反対者である」(同志藤森)という同伴者性の強調。
第三は、作家同盟の指導部と「一連の非プロレタリア的作品」という論文との関係に対する批判者たちの関心である。同志神近は「同盟が過去一年間に堆積して来た指導理論の一部の偏向を極端な形で現している」と認め、同志藤森は、「僕自身いわゆる指導部の一員として」「中條的批難は別として」「僕の知る限り同盟の誰も」「作品を非難しても君の階級的意志を否定する者はない」同志林の才能や長所その他についての「考察や反省は今迄も指導部でされてきた。今後は一層強力に一般的になされるだろう」云々と云っている。
私は順次、第一の批判からとりあげてそれを正しく自己批判に摂取すると同時に、プロレタリア文学運動全線との関係においてその批判の意を観察して行きたいと思う。
われわれの陣営でどの一つの論文にしろいわゆるケンカを目ざして書かれるということはあり得ないことである。何かの意味である一つの問題を大衆化し、討論し、正当な発展へと押しすすめるべき目的をもって書かれるのであるから、その論文が先ず読者を納得させることに失敗したとすれば、それは論文のマイナスの部分として認めなければならぬ。同志藤森が、論文中にあるある種の文句を、不適当のものとして指摘したことは正しい。
しかし、そのことと「悪罵」とは明らかに区別されるべきであると思う。悪罵とは、討論の対手に対して、個人的罵倒即ち「眼鏡をかけた雌蛙」だとか、例えば「尻尾のない雄鶏」だとか云うことであって、これは作品評として、科学的内容の不正確な形容詞をつかうことと同じことではないのである。
それにつけても、同志藤森、林によって腹癒せ風に個人的非難が加えられたのみで、論文の基本的な点にふれての科学的究明による批判がいささかもなされなかったことは、遺憾である。何故ならば、「一連の非プロレタリア的作品」についてのみならず、われわれが互に発展するためには、客観的真理をわれわれの目前により明確にあばき出さなければならず、科学性の欠如そのものによってひき起された誤謬を証明するためには、常により正確な科学的方法が発動させられなければならない。
発展はこのようにしてなされる。いい気持で、傲慢な罵倒をしているのは小ブルの自己満足であるといわれても、筆者がもし、自己満足のためにそれを執筆せず、傲慢を志してもいない時、それは批判者並びに筆者にとって、何らの発展をももたらさないであろう。
同志林の「眼鏡をかけた雌蛙」や「見習女中」云々には、思わず笑ったことである。が、私は同志林がおそらく最も軽蔑的な言葉として選んだであろう言葉が、それに対して全プロレタリアが闘っている最も封建的な社会性を反映する「見習女中」であったことに、意味深いものを感じた。同志林がプロレタリア文学運動に参加して二年の「見習女中」に対して自身の多年の閲歴を語るのであれば、それは、「見習女中」の科学性の欠如をくまなく明らかにし、自身の文学的活動のより高いレーニン的段階の獲保によってプロレタリア文学を押しすすめることにおいてこそなされるべきではなかったか。
「一連の非プロレタリア的作品」において、同志林は直接に作品を問題とされていない。それにもかかわらず、「見習女中」をやっつけるために第一線に出動し、手紙の形式で同志藤森、須井を初め、同志川口、鈴木、黒島などを引き合いに出し、或いは「おこれ、おこれ」と叫んでいるのは、まことに奇妙である。多分今年の始めか、昨年末であったか、同志林が、同志小林多喜二について「好漢小林多喜二も、どこかでなすべきことをやっているらしいから、これは大いによろしい」という意味のことを書いていたのを記憶するのは私一人ではなかろう。その同じ同志小林は、僅か一二ヵ月の間に一躍、中條とともに「日本のプロレタリア文学の発展に最悪の影響をあたえている連中」の一人とされたのである。しかも、吾々は一人として、同志林と小林との間に、プロレタリア文学についての討論が行われたことを知らない。同志林によって、小林に対する評価をそのように変化させる原因となった特殊な研究が発表されたということをも聞かぬ。われわれをふくめて大衆一般は、それを同志林の全く主観的な原因による評価の変化として理解する以外の、どのような根拠も不幸にして発見し得ない訳なのである。
同志藤森と林とは何故論文批判の中心をその科学的検討に置き得ず、中條への個人的攻撃に集中し、同志藤森においては自身の調停派的態度を明らかにし、同志林にあっては、階級的運動内にあってそれがある種の危険とされている方向へまで自身を暴露するに至っているのであろうか。
「一連の非プロレタリア的作品」という論文は、例えば同志藤森の「亀のチャーリー」の批評についていえば主題の積極性を欠いていることを指摘した点。「幼き合唱」に対して、その作品がプロレタリア的観点からの著しい背離
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