のは私一人ではなかろう。その同じ同志小林は、僅か一二ヵ月の間に一躍、中條とともに「日本のプロレタリア文学の発展に最悪の影響をあたえている連中」の一人とされたのである。しかも、吾々は一人として、同志林と小林との間に、プロレタリア文学についての討論が行われたことを知らない。同志林によって、小林に対する評価をそのように変化させる原因となった特殊な研究が発表されたということをも聞かぬ。われわれをふくめて大衆一般は、それを同志林の全く主観的な原因による評価の変化として理解する以外の、どのような根拠も不幸にして発見し得ない訳なのである。
同志藤森と林とは何故論文批判の中心をその科学的検討に置き得ず、中條への個人的攻撃に集中し、同志藤森においては自身の調停派的態度を明らかにし、同志林にあっては、階級的運動内にあってそれがある種の危険とされている方向へまで自身を暴露するに至っているのであろうか。
「一連の非プロレタリア的作品」という論文は、例えば同志藤森の「亀のチャーリー」の批評についていえば主題の積極性を欠いていることを指摘した点。「幼き合唱」に対して、その作品がプロレタリア的観点からの著しい背離
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