選評
宮本百合子
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(例)[#地から1字上げ]〔一九四八年一月〕
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予選をとおった十八篇の原稿が回されてきた。そのなかでは「電池」(富田ミツ)が一番すぐれている。落付きをもった筆で、いきいきと今日の学童の生活雰囲気、その間におこる小事件が描かれ、歪んだ苦しい社会相もそのかげに映しだされている。はじめ学校全体から理科用電池を盗んだと思われたうすのろの伍助の姿、やがてほんとは松井という少年がそれをとったという事実がはっきりして伍助への同情が学校にひろがって来る過程もリアリスティックにとらえられている。全体が自然に、わざとらしいところのない真情でかかれていてよいと思った。
「青空」(種村千秋)は手馴れたかきかたで、大人の常識と少年の心情のくいちがいのモメントをとらえ、先生を慕い信頼する少年の感情を描いている、しかし全体を抒情性でばかり貫いていて、特に終りの河原の場面は安易な映画の情景のように通俗的におちいっている、冒頭の、少年を理解しない先生との紛糾も事柄の内容をはっきり描き出していないために読者を納得させられない。少年もの風の“甘さ”と“なれ”が作品を失敗させている。
「出発」(神山賢)「北方のともしび」「一月卅一日の夜」「筍」これらはそれぞれの角度から日本の教育者がとじこめられて来た過去の非人間な事情と、現在の苦しい経済事情に生きるなかにもひとしお苦痛な先生というものの特殊な立場を語っている。「出発」は教員養成所の老猾な旧師を中心に、若い人々の真摯な探求心を殺し、卑屈な人生の出発をよぎなくされた青年の苦悩を真面目にとりあげている。
けれども、文学の作品とすると、もうすこし主人公の、よりよく生きたいと希う人間らしい心もちそのものの中からすらりと書かれる方がよいと思った。たとえば教員養成所というところが共産主義という言葉ばかりで脅えている。その醜さは描かれているが、作者はそういう思想上の一つの言葉を、そのまま主人公の善意のしるしのように作品の中で扱っている。これでは観念的である、共産主義という言葉を一つもしらないでもよりよく生きたいと願っているのはすべての人の心であること、主人公のその本心にじっくり心をおいて生活のなかでめぐりあってゆく経験として教員養成所のことも描
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