大いなるもの
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)何処《いずこ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)手|触《ざわ》り

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「さんずい+因」、424−3]
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 大いなるものの悲しみ!
 偉大なるものの歎き!
 すべての時代に現われた大いなるものは、押並べて其の輝やかしい面を愁の涙に曇らして居る。
 我々及び我々の背後に永劫の未来に瞑る幾多数うべくもあらぬ人の群は、皆大いなるものの面をみにくき仮面もて被い、其を本来の面差しと思いあやまって見ると云う痛ましい事実を抱いて居る。
 何物を以ても抗し得ぬ時代の潮に今日も明日もとただよいながら、しばしば私に迫り、ややもすれば私の四肢を、心臓をまひさせ様とした力強い潮流の一つを見出した。
 深い紺碧をたたえてとうとうとはて知らず流れ行く其の潮は、水底の数知れぬ小石の群を打ちくだき、岩を噛み、高く低く波打つ胸に、何処《いずこ》からともなく流れ入った水沫をただよわせて、蒼穹の彼方へと流れ去る。
 此の潮流を人間は、箇人主義又は利己主義と云って居る。
 私は、此の箇人主義、利己主義に大いなるものの歎嗟の吐息を聞いたのである。
 此の声を聞き得たのは私一人のみかもしれない。
 或る人々は、その様な事は誤った事だと、私の此れから述べる事をひていするかもしれない。けれ共、私は自分の五官の働きを信じて疑わない。
 私にとって、自分の眼、耳に感じた事が、自分に対しては最も正直な、或る事物に対する反影であると信ずるのである。
 そのかすかながら絶ゆる事のない歎きを聞く毎に私の心に宿った多くの事を私は明白のべるだけである。賞むる人、賞めない人のあるなしは、私の考を曲げる事は出来ない。

 箇人主義――利己主義、それは名の如く、何事に於ても、自己を根本に置て考え、没我的生活に対する主我的の甚だしいものである。
 主我!
 それは、真にたとうべくもあらぬ尊いものである。
 此の世に生れ出た以上は、自己を明らかにし、自己を確実に保つ事の目覚しさを希うて居る。
 何事に於ても、「我」が基になるほど確な事はない。
 神よりも自己を頼み、又とない避難所とし祈りの場所とする事は、願うべき事である。
 そう云えば、此の主我が主張する箇人主義、利己主義は真に尊いものであるべきである。完全なものであるべきである。
 それを、何故、此の主義は、子を奪い去って、老いた両親に涙の臨終を与え、又その子をもほんろうし歎かせ、やがては、淋しい最後《いまは》の床に送るのであろうか。
 人々は、年老い、遠い昔に思を走せて居る一代前の人々の歎きを理由のないものとするかもしれない。
 わびしくこぼす涙を、年寄の涙もろさから自と流れ出るものと思いなすかもしれない。
 けれ共、その心を探《さぐ》り入って見た時に、未だ若く、歓《よろこび》に酔うて居る私共でさえ面を被うて、たよりない涙に※[#「さんずい+因」、424−3]ぶ様になる程であるか。
 私は静かに目を瞑って想う。
 順良な、素直な老いた母は、我子等の育い立ちを如何ほど心待って居る事であろう。
 日一日、時一時、背丈の延びると共に心も育って行く。いかほどの喜びを以てそれをながめて居る事であろう。いつか子の背は、我よりも高く、その四肢は、若く力強く、幾年かの昔、自分の持って居た若き誇り、愛情をその体にこめてある事と想うて居る。
 我子の愛に満ちた声を待ち、優さしい手|触《ざわ》りに餓えて居るであろう。
 けれ共、その子は、親を振向かなかった。
 同じ手の力を持ち、顔の輝きを持つ者共と互して、夜は燈の明るい賑いの中に、昼は、自分の好きな事ばかりをして居るのを知った時の悲しみは如何ばかりで有ろう。
 親を顧みぬ。
 何故に?
 我身のいとしさ故。
 我に換うべきものはないからと、その人々は答うるで有ろう。
 斯の如き人々は、箇人主義の胸の上の水泡となって数知れずただようて居るのである。
 私はそれを悲しむ。
 私は、箇人主義は、より偉大なものである事を知って居る。
 今の現れが箇人主義の最もよい現れではないのである。私は敢て、箇人主義は大なる社会的生存に一致する事を明言して恥じないのである。
 箇人主義と社会的生存。
 それは、甚だ矛盾《むじゅん》した様な外見を持って居る。
 けれ共、正しい箇人主義は社会的生存に一致する事を私は確信して居る。
 箇人主義、利己主義。
 此は要するに、自分のためを思い、自己を主とする主義である。
 そして、自己のために最も益のある、己を私する事は何であるか。
 私は直ちに
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