「自己の完成」と答えるのである。
 堪え得ぬ魅力をもって此の言葉は私の心を動かす。
 己を私するに、自己完成ほど力強いものが有ろうか。
 私の云う自己完成と云うのは、或は今まで多くの人々の云ったのとは少し異うかもしれない。
 私は、実の自己と云うものは、一個の肉体に宿る多くの意志、感情、智の中で、生れ出た時既に宇宙の宏大無辺の精力の中から分けられた精力が、その三つの中のいずれかに宿って居る時に、その先天的にある精力を自己と云いたい。
 そう云えば、世の人の云う天才と云う意味にもなろうけれ共、私はそこまで特殊なものにはしない。
 何人と云えども、その人々の特徴がある、其の特徴のある事が即ち、此の三つの中のいずれかの一つに他よりも多く精力を授けられて居る証《あかし》である。
 それ故人々の自己は、皆異って居るべきであるから或人は、哲学に宗教に自己を完成し、又は、芸術に、物事を実践躬行する事に於て自己を完成するのである。
 道徳的自己完成をはかる事は、昔から自己完成と殆ど同意義に思われて居るのではあるまいか。
 斯うして、私は、自己完成とは如何なる方面に於てもなし得らるるものと云った。
 これを聞いて、非常に危険な感を抱く人があるかもしれない。
 それは、自己完成が道徳的でないでもなしとげられるものだと云うから、奔放《ほんぽう》は廃徳な心状を以てなす芸術に於て自己を完成しても――少《すくな》くともその当人はそう自信して居る場合、それは自己完成と云え様か。
 例えば、或る小説家は極端な人情本を書く事に衆を抜ん出て居たと仮定する。
 而してその人は、その事に他の及ばない自己を持って居たものとする。
 その人の著したもののために、世の多くの人の心が害されたと云う事が起れば、それは、自己完成と云う事が出来る事は出来るが、只其の名を汚す事をのみするものである。
 如何なる事に於ても、其を一貫した「実」と云うものがなければ、其は、その形骸のみをそなえて最も尊い霊を失ったものである。
 世の中のあらゆるものに「真」のないものは決して長生する事は出来ない。
 聖ダンテの「神曲」は、何故今日まで不朽に生命を受けて居るか。
 永遠に変らざる「真」がその一言の中にも輝いて居るからでは無いか。
 ホーマーもミルトンも、只「真」の一字がある故に尊いではないか。
 孔子、基督、その他あらゆる人々の頭
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