の場所とする事は、願うべき事である。
そう云えば、此の主我が主張する箇人主義、利己主義は真に尊いものであるべきである。完全なものであるべきである。
それを、何故、此の主義は、子を奪い去って、老いた両親に涙の臨終を与え、又その子をもほんろうし歎かせ、やがては、淋しい最後《いまは》の床に送るのであろうか。
人々は、年老い、遠い昔に思を走せて居る一代前の人々の歎きを理由のないものとするかもしれない。
わびしくこぼす涙を、年寄の涙もろさから自と流れ出るものと思いなすかもしれない。
けれ共、その心を探《さぐ》り入って見た時に、未だ若く、歓《よろこび》に酔うて居る私共でさえ面を被うて、たよりない涙に※[#「さんずい+因」、424−3]ぶ様になる程であるか。
私は静かに目を瞑って想う。
順良な、素直な老いた母は、我子等の育い立ちを如何ほど心待って居る事であろう。
日一日、時一時、背丈の延びると共に心も育って行く。いかほどの喜びを以てそれをながめて居る事であろう。いつか子の背は、我よりも高く、その四肢は、若く力強く、幾年かの昔、自分の持って居た若き誇り、愛情をその体にこめてある事と想うて居る。
我子の愛に満ちた声を待ち、優さしい手|触《ざわ》りに餓えて居るであろう。
けれ共、その子は、親を振向かなかった。
同じ手の力を持ち、顔の輝きを持つ者共と互して、夜は燈の明るい賑いの中に、昼は、自分の好きな事ばかりをして居るのを知った時の悲しみは如何ばかりで有ろう。
親を顧みぬ。
何故に?
我身のいとしさ故。
我に換うべきものはないからと、その人々は答うるで有ろう。
斯の如き人々は、箇人主義の胸の上の水泡となって数知れずただようて居るのである。
私はそれを悲しむ。
私は、箇人主義は、より偉大なものである事を知って居る。
今の現れが箇人主義の最もよい現れではないのである。私は敢て、箇人主義は大なる社会的生存に一致する事を明言して恥じないのである。
箇人主義と社会的生存。
それは、甚だ矛盾《むじゅん》した様な外見を持って居る。
けれ共、正しい箇人主義は社会的生存に一致する事を私は確信して居る。
箇人主義、利己主義。
此は要するに、自分のためを思い、自己を主とする主義である。
そして、自己のために最も益のある、己を私する事は何であるか。
私は直ちに
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