ると、場内が俄にザワザワ、ガサガサいう音響に充たされて、畑陸相の開口を暫らく制する有様である。上から見下すと、只一様に白紙のように議席に置かれていたのは、参考地図であった。米内首相は降壇のときわざわざケースに納めて戻って来た眼鏡をまたかけて、地図をひろげたが、隣の桜内蔵相は、拡げる場所が狭苦しいのか、体を捩って首相のを覗き込んだ。その報告は拍手を浴びたが、畑陸相の声はなかなかききとり難い。武田信玄が万軍を動かした音吐の見事さは歴史にも語られているが、現代の将軍にその必要もないと見えて議席のあちこちから盛んに、もっと大きい声で願いまアす、聴えませんという声がかかる。聴えないぞ、といういいかたのはないところに、今日の時代の何ものかが語られているのだろう。ラジオを大きくしろ、ラジオを! とせき込んだ年よりの声もする。
吉田海軍大臣の声も、華やかなところはないが、聞きなれて来ると不明瞭ではなかった。
質問に入って、小川郷太郎氏が、経済問題を中心に熱弁を振った。特徴のある声の抑揚のつけかた、区切りかた、いかにも議員らしさの満ちた演説ぶりである。型にはまった抑揚でも、今日の社会生活の面にふれて、官僚独善に対する非難は囂々たるものがありますといえば、拍手は議席一体から湧きおこるのである。電力不足、石炭不足、悪性インフレーション防止、円ブロックの問題の対策如何に。米のないこと、マッチのないこと、それはどう解決されるのであろうか、政府の方針を守って買い溜をしなかったものは今日物資に不自由し、命を守らずして買いだめしたものは、不自由を感じていない。正に正直な者が罰せられたのであります。と演壇からいわれるとき、拍手が満堂をゆすって、さっき小競合をした隣りの婦人たちも、ほんとにねえと小声で囁きあっている。漱石の遺作で「暗翳」という未完成の作品がございましてね、なかなかどこにもないんですのよ、それを宅がやっと探して来てくれまして、と指環をいじりながら「明暗」のことを話していたその女のひとの生活の中でも、主婦としての毎日の目にはマッチのないこと、木炭や米のないことは、そのままでの姿で見えているのだと思える。万民協力、この難局を突破しなければならないことは自明でありますが、それには従来の秘密主義で民をして依らしむべし、知らしむべからずではなりません。この態度は改められなければなりません。というようなところで、一きわ張り上げられる小川代議士の声も、やはり活溌な反応をよびおこすのであった。
中等学校への入学試験が内申制になってから、一人の子供を上の学校へ入れるために百円から千円の金がいるようになった、というような記事が、昨今は世人の注目と関心とをひいている。小川代議士の質問にちっともそういう面がとりあげられなかったのは、他の代議士との質問の分担上の関係からであったのだろうか。
質問に答えるために米内首相が再び登壇したが、それに対する議場の雰囲気は、米内首相にしろ、これまで海軍大臣として受けて来た風のあたり工合とは、おのずからそこに微妙なちがいの生じていることを直感しただろう。或はそんなことは、立場としての当然のこととしてのみこんでいるのかもしれない。忽ち日本議会の輝かしき名物である彌次が飛び出した。ダメだ、ダメだ。笑いに混ってそんなこともきこえる。もっと軍人らしくやれ! そういう声もする。傍聴席の右側下政友会中島派というあたりが発源地らしい見当である。黙ってろ! いわせろ! そういう罵声も交々であった。
米内首相の答弁ぶりは、一つも気の利いたところのないものであるが、答弁の精神的態度とでもいうべきものは、正面に自分の体の幅全体を向けて端然としているこのひとの体の構えと全く一致していて興味ふかい。壮重な声が一見、余りあたり前の、努力いたす決心であります。というようなことをくりかえすので、議員は笑う。首相に就任したときの軍装写真で、何となく下げている右手の拇指と人さし指をひとりでに軽く円くよせて、丁度仏さんの右手を下へ垂れたような工合になっていたのが、目にのこっている。あれは、このひとの粗笨でない心の或るリズムを語っているように感じた。しかし、一人の人としてのうまみ[#「うまみ」に傍点]というようなものが、多難多岐な客観的局面をどう展開させ得るだろうか。二つのことは常に必ずしも一致し得ないことを、過去の歴史も多くの実例で語っている。
桜内蔵相の答えかたには、首相とまるでちがう一種の話術のようなものがあって、議席の空気はおや? とひかれ、なーんだとゆるんで、そこへ彌次がとび入るという工合である。強制貯金をさせるという気はないという意味にとれる答えが、いくつかの答えの中にあったが、その朝、貯蓄組合加入の紙が市役所のビラと一緒に町会からまわって来て、各戸最
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