スに盗ませた火と云うものの真の威力を知らせて呉れよう。水になんぞは怯じけるな!
カラ ああ、私の冷かな鉛の乳房も激しい期待でときめくようだ。この身にしみる叫喚の快い響、何処となく五官を爽かにする死霊の前ぶれ。――おや、あの木立もない広っぱに、大分かたまって蠢いていますね。
ミーダ 目に止まらずに恐ろしいのは俺の力だ。見ろ、慌てふためいた人間どもを、火が移ったら其ぎりの小舟や橋に集めて見せるぞ。落付いて身の振方はつけさせず、類で誘《いざ》ない、数で誘って、危地へすらりとかたまらせる。――舷に手をかけ、救けを求める奴なぞは叩き沈めろ! 孕み女が転んだとて、容赦なんぞはいるもんか。
ヴィンダー ――ところで、妙な軍装の奴が現れたぞ。今のところでは俺の味方に廻って、壊しやの手先になって呉れる奴か、或は又逆に鉾を向けて、所謂文明の擁護をする奴か、一寸見分けがつかぬ。
ミーダ ふうむ。武器を持っている。血相もどうやら変っている。何を彼那《あんな》に狙っているのか。……やったな。驚いた。俺さえ予定には入れていなかった此は一幕だ。――ついでに、一寸手を貸すかな。真実は根もない憎みや恐怖や、最大の名薬「夢中」を撒くと、同類の胸も平気で刺すから愉快なものだ。
ヴィンダー さてもう一息だ。俺の力の偉大さは、小さなものには著わされぬ。あの壮麗らしく人工の結晶を積みあげた街をつぶして呉れよう。斯う三叉でくじって、先ず屋体に罅《ひび》を入らせる。一ふき※[#「韋+備のつくり」、第3水準1−93−84]《ふいご》で火をかける。――どうだ。美事な、自然らしい悪意には、我ながら感服の外はない。
ミーダ 愉しめ! 愉しめ! 押しこめに会っていた本能の野獣ども。今日は火の中のワルプルギスだ。如何に醜悪な罪証も寛大な焔が押し包んで焼き消して呉れる。(とまあ唆かすのだ。)心に遺る罪証の陰気な溜息を恐れない為には、雄々しい仲間をどんと殖して並ばせる。――だが、地の神が衣の裾を一ゆすりする偶然から、俺のこぼした種一粒が、斯那塩梅に芽をふき出そうとは思わなかった。
カラ ああ、あの火花の下をかいくぐり、嬰児の命を庇おうとして、到頭ばったり倒れた母親。――破壊神、呪いの神にお礼を云って戴きます。アーリアン人の喧嘩の時も、餌物は随分ありはしたが、どれもこれも味のない程苦しかった。敵が憎いと云う一念で、胆汁が霊にまで滲みこんでいたと見える。ところが今日の美味さ! 本当の別製だ。どうか自分の同胞たちを救けたいとか、親や妻子、良人ばかりは生かせたいとか、奇妙な願いに充ちているので、さながら甘露の味いがする。
ヴィンダー こせついていた都会も、これで少しはからりと焼原になったな。脆いものだ。俺が愉快なのは、建物がひしゃげて灰になったばかりではない。人間共が、得意な意気込みで、これ見よがしに築き上げた文明の精神まで、一緒に焼き払ってくれたことだ。
ミーダ 体も心も赤裸か、楽園を追われたアダムとイブと云いたいが、俺と云う憑きものがあるだけ、あの当時より複雑だ。
カラ ああ私も、久しぶりで堪能した。ちょいちょい小出しに楽しもうと蓄めさせた涙の壺、霊の櫃だけでも彼那になった。
ヴィンダー そろそろ俺達は引とるかな。細々した残りの仕事は、自身手を下す迄もない。
カラ すっかり満足して上気《のぼ》せた私の顔のように赤い、澱んだ太陽が、それでも義務は守って、三遍火の上をかき抜けました。
ミーダ ――引き上げよう。――が。その前に一つすることがある。利己、貪慾、無節制の一袋を、此処ら辺からばら撒くのだ。
ヴィンダー 俺は、当分何も手につかない戦々兢々、なかなか効果は偉大な、絶望、その従弟のもっと可愛い自暴自棄を置土産にする。
カラ それなら私は――執念深い思い出。忘れようとして忘られず、思い起して死んだ者、先《さきだ》った物の為に流す涙、溜息は、男のでもかなり好もしいものです。
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(皆去る)
濛々とした雲は鎮り、微にやけた鉄のような色を反映させながら、依然として雲の柱第二級天の宮を支えている。
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ヴィンダー(横わって)少し運動したので爽快だ。このいい心持で一寝いりするかな。
カラ 私も何だか若返ったような気持です。行って、昼月の鏡で、髪の縺れ工合でもなおそうかしら。
ミーダ 思いがけない機会で、隠密な日頃からの俺の唆かしの結果が見られて嬉しかった。人間共も、まだ当分は材料になるな。
ヴィンダー 偶然を徒らな偶然で終らせないのが俺達の腕だ。大方今頃は、途方にくれた鈍い面を、深刻らしく歪めて、焼後の灰でもほじくっているだろう。あーあ(欠伸)
カラ では暫く左様なら。又よい知らせがあったら仲間に入れるのを忘れないで下さい。(去る。)
ミーダ ――虫の好いことを云う。――どれ。(ごろりとなってヴィンダーブラを見る。)何だ。もう寝たのか、単純だな。(そう云いながら、自分も突伏し、ヴィンダーブラと交り交り鼾の音を高く立てる。)
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処へ、智慧、愛、想像の女神イオイナ光のように現われる。
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イオイナ 実は、心配して様子をそっと見に来たのです。(二神の様子を見)まあ、さも自分の仕事は成就したと云いたそうに眠入っていること。先刻の有様では、如何なることかと案じたが、この神々に、満足の感情と、倦怠と、眠りのあるのは有難いことです。暴れる時は、天地の軸が歪みそうで、天帝の眉さえ顰《ひそ》む程だが、必ずあとに、休止と云うものが従っている。
私は始めもなければ終りもない。夜も昼も区別をしない働き手です。余り身軽で、静かで、伴う物音がないから、時々行方をくらましたとさえ思われるが、明るい澄んだ心の光ですかして見ると、つい傍にいたのがわかります。
やっと、今鎮まったあの天と地との大騒動の間でも、私は私の任務を尽していました。彼方此方、随分とび廻って、さし迫った智慧や忍耐や互の助力をかしてやったが、破壊神や呪咀の神は、一向私の存在を見抜なかった。呪いの神が、破壊神を単純と嗤《わら》ったが――(晴れやかな微笑)云った者が必ず叡智に長けているとも思いません。私の白髪とこの透明な白衣とが、何の為だか一向知ろうともしません。私のこの髪と衣はどんな色でも光りでもそのまま映して同じ色に輝きます。火に入れば熱い焔色、燻《くすぶ》りむせる煙に巻かれれば見わけのつかない煤色になって、恐れて逃る人間達を導き導き空気とともに勇気を与え、必要な次の営みにつかせます。際立った音と目立つ象を持たないからこの神々の容赦ない視線も逃れ、場合によると、活気を添える味方とさえ思われる。それに、破壊神呪咀の神は、自分の正面に来るものしか見えないのが特性です。三方は明いている。そこが私の領分です。どんな破滅が激しかろうと、虐げようが厳しかろうと、男女一組の真直な人間がその三方の何処かに逃る隙さえあれば、きっと私の手が待ち受けてい、つつましく根気よく次代の栄をもり立てるのです。
――おや、微な気勢《けはい》が近づいて来る。私になじみのあるものらしい――。
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イオイナの使者、一片の花弁のように軽く、女神の傍に降る。
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使者 およろこび下さい。女神様。そろそろ貴女のお力の効験《しるし》が現れて来ました。災厄が余り突然やって来たので、人間の微妙な精神の歯車も大分痛められました。あれほど感情の鋭い者達が、本当に涙もこぼさず、獣のように狂い喚いていた有様は思い出しても恐ろしいが。――(一粒のキラキラ金剛石のように輝く露を示す。)御覧下さいこれは、始めて人間がしん[#「しん」に傍点]からこぼした嬉し涙の一雫です。互に求め合い、思い合っていた血縁、愛人達、誼《よしみ》の深い友達共が、はっと息災な眼を見合わせた刹那、思わずおとした一滴です。
イオイナ まあ美しいこと。曇もない。かえしておやり、返しておやり。これは勤勉の根に注ぐ比類のない滋液です。
使者 それから、申すも楽しいのは、今朝一人の幼児が、母の懐に抱かれながら太陽を仰見て、からからと笑いました。傍にいた男女や年寄も、同じ方を見上げてほほえみました。
イオイナ おお、嬉しいことの二つ。――私の胸がすがすがしく、白衣の囲りにかがよう陽炎《かげろう》のような光が一層晴やかなのも訳のないことではなかった。それから? 私は、人間の長い、真面目な、忍耐強い生活の話になると、此処に眠っている神々に負けない貪慾なききたがりやになるのです。
使者 男でも女でも、安閑としているものはありません。列を作って、地道な蟻のように、廃墟の地ならしにとりかかりました。それに(声を低め)この神々が、人間の精神まで殺し終おせたように云われたのはまるで事実とは違う間違いですね。学舎の壁は火で煤け、天井はやっと夜露を凌ぐばかりだが学者達は半片の紙、半こわれの検微鏡を奇蹟のように働かせて、真理へ一歩迫ろうとしています。
イオイナ そうだろう。――そうなければなりません。そして、私の忠実な僕《しもべ》の芸術家達は、巫女のような洞察で天と人類とのゆきさつを感じ、様々な形で生存の真髄を書きとめ刻みつけ彩って行くのです。……さあ、それでは出かけて、もう一まわり、独特な鼓舞で励ましておやり。仕事は辛い。なかなか容易には捗取らない。そこへ、お前が、耀《ひかり》の翼で触ってやると、人間は、五月の樫が朝露に会ったように、活々と若く、甦るのです。
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(使者去る)
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イオイナ ――神々は、私が余り人間の味方をすると云って憤られる。……けれども、あの、蝎《さそり》の毒でも死ぬように果敢ない肉体を持ちながら、精神ばかりは高貴な、不壊な者たちをどうして痛おしまずに居られよう。私には母の本能がある。自分の最初の形代人間が、渾沌から渾沌に亙る雄大な認識と、音楽のように豊かな複雑な感情を持ちながら、神が絶対を示そうとする運命に圧せられきる有様を、平然と見ては居られないのです。
ああ此処でも、遙かな雲に遮られてはいるが、彼等の精神と意力のそよぎが感じられるようだ。ああ人間たち! 本当に、諸神が昔パンドーラに種々の贈物をされた時、私が何心なく希望を匣《はこ》の下積みに投げ入れたのはよいことであった。
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(歩み去りながら)
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行って東風に頼んで来よう。少しはっきり下界の音を運びすぎる。――おやすみなさい、神々。(諧謔的に)今貴方がたの睡って被居るのは、私が醒てるより人間達のよろこびでしょう。(去る)
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ヴィンダーブラ、この時、悪夢に襲われたように低い呻き声を発して目を半ば醒す。そして、暫く不安げに四辺を見廻し、やがて寝ころんでいるミーダの方にのろのろ這いよって行く。[#地から1字上げ]〔一九二四年一月〕
底本:「宮本百合子全集 第三十巻」新日本出版社
1986(昭和61)年3月20日初版発行
初出:「週刊朝日」
1924(大正13)年1月1日号
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2007年8月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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